多功氏
概要多功氏は下野宇都宮氏の庶流で、宇都宮頼綱の7男・多功宗朝が宝治2年(1248年)に下野国河内郡に入って多功氏を称したことを起源とする[1]。宗朝は多功城を築いてこれを居城とした。多功城はこの後350年にわたって多功氏の居城となった[1]。 天文年間(1532年 - 1555年)の五月女坂の戦いでは、合戦には敗れたものの活躍を見せた[2]。永禄元年(1558年)には上杉謙信の関東侵攻に巻き込まれ、多功城は上杉軍に包囲されている[2]。当時の城主・多功長朝は奮戦して城を守り切り、攻め手の佐野豊綱(佐野小太郎)を戦死させる活躍を見せた[2][1]。元亀3年(1572年)と天正12年(1584年)の2回にわたって北条氏政に攻められるも、長朝とその子・房朝らはこれに耐えている[2]。天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原征伐では、宇都宮国綱の名代として従軍した[2]。 しかし、下野宇都宮氏が慶長2年(1597年)に改易されると、多功氏も主家と命運を共にした[2]。一族の一部は今治藩松平氏に仕えたという[1]。 歴代当主脚注参考文献
関連項目 |