夏見廃寺跡夏見廃寺跡(なつみはいじあと)は、三重県名張市夏見にある古代寺院跡。元々の寺名は「昌福寺」と推定される。国の史跡に指定されている。 概要伊賀地方南部、名張川右岸の丘陵(男山)南斜面に位置する。1946-1947年(昭和21-22年)、1984-1986年度(昭和59-61年度)に発掘調査が実施されている。 主要伽藍として金堂・塔・講堂・掘立柱建物の遺構が検出されており、斜面上段において金堂を中央、三重塔を東に配し、斜面下段において講堂を西、掘立柱建物(僧房か)を東に配する変則的な伽藍配置である。発掘調査によれば、金堂は白鳳期の7世紀末葉頃、塔・講堂は奈良時代の8世紀前半頃に建立され、平安時代の10世紀末葉頃に焼失したと推定される[1]。『醍醐寺本薬師寺縁起』の記述から、当時の寺院名は「昌福寺」であったと推定される。特に金堂の特異な建築様式、各種の塼仏の出土の点で注目され、中央との結びつきを物語るとして重要視される遺跡になる[1]。 寺域は1990年(平成2年)に国の史跡に指定され、出土塼仏・塑像は2003年(平成15年)に三重県指定有形文化財に指定された[2]。現在は名張中央公園内に位置し、史跡整備のうえでで公開されている。 歴史古代夏見廃寺の創建に関しては、『醍醐寺本薬師寺縁起』(平安時代後期)の「大来皇女、最初斎宮、以神亀二年奉為浄御原天皇建立昌福寺、字夏身、本在伊賀国名張郡」という記載が知られる[3]。この「昌福寺」が夏見廃寺跡にあたる可能性が高いとされ、天武天皇皇女の大来皇女(初代斎王)による発願によって神亀2年(725年)に完成したとされる[3][1]。名張は畿内の東限とされる重要地であり、大来皇女が飛鳥浄御原宮から東海道を通って斎宮に向かう際には名張川で禊をおこなったという[1]。ただし朱鳥元年(686年)の大津皇子自刃後の大来皇女は財力・権威を失ったとして、建立の中心人物は元明天皇であって大来皇女・大津皇子を弔うために発願をし、遺志を継いだ元正天皇の時に完成したとする異説も挙げられている[3]。 発掘調査によれば、金堂は7世紀末葉頃(塼仏の1つに甲午年(持統天皇8年(694年))銘)、塔・講堂は8世紀前半頃に建立され、10世紀末葉頃に焼失したと推定される[1]。 近代以降近代以降については次の通り。
遺構寺域は東西約84メートル・南北約75メートル[6]。丘陵斜面に位置し、南側は掘立柱塀、東・北・西側は築地塀をもって区画する。地形の制約上、寺域の北寄り(上段)において金堂を中央、塔を東に配し、南寄り(下段)において講堂を西、掘立柱建物を東に配する変則的な伽藍配置である。遺構の詳細は次の通り。
丘陵斜面に位置することから、各基壇は斜面上部を削り斜面低部に積み上げることで整地される。また寺域を囲む塀のうち東・北・西側の築地塀は、基底部幅1.8メートルを測り、本来の高さは3メートル前後であったと見られる[1]。東・西側では両側に素掘りの側溝が、北側では山側のみに側溝が設けられる[1]。瓦の出土が少ないことから、築地塀の上部は板葺と推定される[1]。 寺域からの出土品としては、多量の瓦のほか塼仏・塑像などがある。軒先瓦の様相によれば、金堂と塔・講堂には時期差が認められており、金堂は7世紀末葉頃、塔・講堂は8世紀前半頃の建立と推定される[1]。塼仏は、型に粘土を押し当てて作成したレリーフ状の仏像で、大型塼仏・方形三尊塼仏・小形独尊塼仏・連座塼仏の6種類がある。金堂の建物周囲から主に出土したことから、金堂の壁面装飾品とされる。一部の表面には金箔が遺存するほか、「甲午年」銘を持ち持統天皇8年(694年)の製作と推定されるものがある。また新田部親王(大来皇女異母弟)の邸宅跡(現在の唐招提寺)において、夏見廃寺と同型の塼仏が出土した点で注目される。塑像は、講堂の須弥壇床面から破砕した状態で出土している。全体像は明らかでないが、螺髪・足の指・天衣(推定)が部分的に認められ、一部には赤色顔料が遺存する。出土した塼仏・塑像516点は、飛鳥時代-奈良時代初頭の仏教文化を研究するうえで貴重な資料とされ、三重県指定有形文化財に指定されている[2][1]。 主要伽藍には火災痕が認められており、出土土器によれば10世紀末葉頃に焼失したと推定される[1]。
文化財国の史跡三重県指定文化財
関連文化財
現地情報
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脚注参考文献(記事執筆に使用した文献)
関連文献(記事執筆に使用していない関連文献)
関連項目外部リンク座標: 北緯34度37分19.00秒 東経136度6分40.80秒 / 北緯34.6219444度 東経136.1113333度 |