塀内夏子
塀内 夏子(へいうち なつこ、1960年6月30日 - )は、日本の漫画家。神奈川県川崎市宮前区出身。女性。旧ペンネームは、塀内真人(へいうち まさと)。 経歴神奈川県川崎市宮前区出身[1]。中学時代はバスケットボール部に、神奈川県立多摩高等学校時代はワンダーフォーゲル部に所属した[2]。 高校在学中に本格的に少女漫画を描き始め、処女作の『ボロクズ』が別マ少女まんがスクール銀賞を受賞し、『別冊マーガレット』(集英社)1979年2月増刊号に掲載されてデビューした。一方、担当編集と打ち合わせを続けるうちに少女誌的な表現方法やラブコメディは不向きだと認識し、次第に漫画を描かなくなった[2]。 高校卒業後に武蔵野美術大学に進学するものの中退、塀内本人は学費未納で除籍と言っている。アニメの背景画を手掛ける石垣プロダクションに就職し『六神合体ゴッドマーズ』などの作品に関わるも1年半ほどで退職した[3]。その後、少年漫画を描き始めるようになり山をテーマにした『背負子と足音』が週刊少年マガジン新人漫画賞に入選(1982年11月入選)し、『週刊少年マガジン』(講談社)1983年1・2合併号に掲載されて、再デビューをした。 デビュー当初は弟の名前を拝借して「塀内真人」というペンネームを使用していた[4]。その理由については「女の子の書いたスポーツ漫画なんて、だれも読んでくれないんじゃないかって、思ったんです」としている[5]。その後、読者にとっては面白ければ性別は特に関係ないと理解し[5]、元号が平成に変わったのを機にペンネームの使用を止め本名に戻している[6]。ただし、1986年に刊行した短編集『夢千代パラダイス』の著者名には塀内夏子を採用し、カバーを外した表紙には彼女の中学3年生のときの通知表を印刷していた。 以降、『おれたちの頂』(登山)、『フィフティーン・ラブ』(テニス)、『オフサイド』(サッカー)などのスポーツ漫画を多く発表していることから[2]、スポーツ青春漫画の盟主とも評される[7]。また『海よ、おまえは』や『勝利の朝』のような実在の社会問題を題材とした作品も発表している。 2004年からは三国志を題材としながらも戦争の悲惨さと平和の大切さをテーマとした『覇王の剣』を発表したが「虎牢関の戦い」の後に打ち切りとなり[8]、2000年代半ば以降は青年誌や女性誌などに発表の場を広げている。 作風登場人物の激情的な心理描写や[9]、熱血青春ものを得意としている[10]。塀内自身は「私には男の子のDNAはない」「多少無理をして少年マンガのラインにいる」と発言しており、萩尾望都や樹村みのりといった少女漫画家の言葉の感覚に影響を受けているとしている[2]。 先述のようにスポーツ青春漫画の盟主とも評されており、自身は「スポーツ漫画を描くならスポーツを好きでなくてはならないという信念を持っている」と発言している[11]。その作風は正統的なスポーツ漫画ではなく、スポーツノンフィクションに近いものとも評される[2]。 スポーツを題材として選んだ経緯については「80年代の『週刊少年マガジン』で流行っていたのは、不良マンガとバイクマンガとスポーツマンガ。そのほかに(中略)ラブコメディが出始めた頃で、おおざっぱに言うとその四つくらい。消去法で、ラブコメディはもう二度と描きたくない。バイクマンガはどうしても理解できない。不良マンガは『マガジン』にコンテまで出していたんですけど、やっぱりわからない」と消去していくうちに、スポーツマンガが残されたと語っている[2]。ただし、当時からスポーツをテレビ観戦するのが好きで、ちばてつやや水島新司の作品にも親しんでいたという[2]。 「取材力に定評がある」と評されるが[4]、登場人物のキャラクター作りを最優先している[2]。また競技特有の繊細な身体動作を良く理解できないまま連載に入るため、後から読み返して赤面することもあるという[2]。こうした点について塀内は「半年くらい描いていると、なんとなく滑らかになってくる」[2]「サッカーとかバレーボールみたいな、あまり道具を使わないものの方がつかみやすい。みんな自然の動きでしょ。だから、テニスとか野球とか、ああいう道具を使うものはなかなかわからなかった」と評している[2]。 趣向
トラブル
作品リスト主な連載
短編・読み切り等短編の大半は、『ダイヤモンド芸夢』『夢千代パラダイス』『サーカス★ドリーム』『塀内夏子短編集1』『塀内夏子短編集2』(いずれも単巻)及び、連載作品のコミックスに収められている。『週刊少年マガジン』、『週刊少年マガジン増刊』、『マガジンFRESH』、『マガジンSPECIAL』等で不定期に掲載された漫画家漫画は、『雲の上のドラゴン』(全1巻)として刊行されている。 脚注
参考文献
外部リンク
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