城戸賞
城戸賞(きどしょう)は、映画プロデューサー城戸四郎の理念にもとづき、若手脚本家を発掘するため、映連「城戸賞運営委員会」が主催する賞。1974年12月1日(映画の日)に制定された[1]。新人脚本家の登竜門とされ、「映画界の芥川賞」とも呼ばれる[2]。 概要受賞をきっかけに脚本家、映画監督、小説家になった者も多い。しかし近年第40回以降、2022年現在で9回連続「入選の該当作無し」とする事態となっており、受賞の難易度は厳しさを増している[3]。受賞作と講評は『キネマ旬報』に掲載される。 同賞の発案は、東映館主会のボスで、全興連会長の山田敏郎大旺映画社長で[4]、山田は時の権力者をうまく自分の懐に巻き込んで動かす業界の"裏ドン"であった[4]。城戸が元気な当時は、城戸にぴったりし、城戸が亡くなると岡田茂にぴったり付きで、城戸賞創設の発表は岡田が行っている[1]。このときの発表では「年間を通じ、優秀な脚本二編(現代劇1、時代劇2)、選定の基準は大衆娯楽作品におき、主として若手ライターにウエイトをおく、そのための基金は邦画4社と城戸四郎による250万円とする」という説明だった[1]。創設以降、1994年の第20回まで、岡田が審査委員長を務めた[5]。 なお、優れた若手社会学者に贈られる城戸浩太郎賞も城戸賞と略されて呼ばれることがあるが、この項の映画の城戸賞とは無関係である。 第1回の選考委員は、新藤兼人、菊島隆三、中村登、増村保造、井沢淳、白井佳夫、田中友幸、馬場和夫と城戸四郎の9人[6][7]。20回目を迎えた映画の日のビッグイベントとして1975年12月1日に華やかに第1回受賞作を発表する予定だったが、受付作品18編を慎重に審議した結果、「選考基準に合致したものはない」と選考委員の意見の一致をみて受賞者なしの結果となった[6][7]。この結果について映画誌の一部から「一つはテレビの影響が大きい。テレビで容易な脚本を量産する習慣がついて、じっくり腰をすえて映画シナリオを書く人が少なくなった。テレビ時代になってシナリオライターが堕落した」「長い間、映画の衰退期が続き、テレビが抬頭していったために、この重要な分野が衰退していってしまった。一種の断層ができてしまい、先輩たちの伝統が受け継がれていない」などの論調が出た[7]。 受賞者一覧第1回から第10回
第11回から第20回
第21回から第30回
第31回から第40回
第41回から第50回
脚注
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