坂本国際墓地坂本国際墓地(さかもとこくさいぼち)は、長崎県長崎市坂本町・目覚町[1]にある外国人墓地。長崎市が管理している[2]。 ここでは、坂本国際墓地に隣接する外国人墓地である新坂本国際墓地(しんさかもとこくさいぼち)についても記述する 概要坂本国際墓地
埋葬者が増えて手狭になった大浦国際墓地の代わりとして、1888年(明治21年)4月に浦上山里村に開設された外国人墓地である[3][4][5]。敷地面積5,594平方メートル、区画数は337[3]で、日本人を含む14か国の325名が埋葬されており[6]、埋葬者の数では長崎で最も大規模な外国人墓地である[7]。 墓地は入口と通路からの距離から1等・2等・3等の3等級に区画が分けられており[3]、イギリス人やアメリカ人などの他、ユダヤ人や義和団事件で犠牲となったベトナム人・フランス水兵がそれぞれの区域に分けて埋葬されている[8]。また、原爆投下後の救護活動に尽力した元長崎医科大名誉教授で、長崎市名誉市民の永井隆と、その妻緑(原爆で爆死)も共に埋葬されている[8]。
新坂本国際墓地
坂本国際墓地が手狭になったことから、1903年(明治36年)に道路を挟んで隣接する敷地に開設された[10][11]。 1908年(明治41年)より供用が開始され、近代日本において様々な分野で功績を残した著名人が埋葬されている[12][11]。2004年(平成16年)にはトーマス・ブレーク・グラバー夫妻の墓碑が、長崎市の史跡に指定された[11]。 日本人を含む13か国・117名が埋葬されており[6]、1991年(平成3年)現在で約70基ほど墓碑が現存する[3]。入口左手のレンガ塀に囲まれた敷地はユダヤ人区域として準備されたもので、61区画が準備されていたが、長崎のユダヤ人コミュニティの衰退もあり[13]、実際には僅か5区画のみの利用に留まった[3]。
開設までの経緯長崎における外国人墓地の歴史は、1602年(慶長7年)、貿易の基盤を築くべく来日した中国人が、当時市街地に唯一存在した仏寺で長崎港西岸にある悟真寺の檀家となり、彼らがその周辺に築いた唐人墓地がそのはじまりであるとされる[14]。1654年(承応3年)に出島に住むオランダ人のためのオランダ人墓地が[15]、また1858年(安政5年)にはロシアの軍艦で発生したコレラ犠牲者のためのロシア人墓地が悟真寺の周辺に開設された[15][16][14]。1859年(安政6年)の開国後には、居留地や航海中に亡くなったイギリス人やアメリカ人といった西洋人のために稲佐国際墓地が開設されている[14](稲佐悟真寺国際墓地)。 開国後、長崎の在留外国人が増加するにつれて、彼らの生活圏である長崎港東岸の外国人居留地から対岸に位置する稲佐国際墓地は遠く離れていて不便だったこと。また、稲佐国際墓地の敷地が狭く拡張の余地がなく、居留地では稲佐に代わる国際墓地開設を求める機運が高まった[15]。居留地の領事代表であるイギリス領事は、居留地の近隣にある妙行寺の持地に、新たな外国人墓地の開設を求めて日本側と交渉[3][4]。1861年(文久元年)、江戸幕府は居留地近隣の大浦郷字山仁田(現在の川上町)に大浦国際墓地を開設した[3][17][4]。 明治時代になると、長崎在留の外国人は増加の一途をたどり、大浦国際墓地の埋葬者数も増加した。1884年(明治17年)に敷地を拡張するもののすぐ手狭となり、このままでは隣接する住居・住民の衛生面に影響をおよぼす可能性が生じたことから、明治政府は長崎県を通じて各国領事館と交渉[4]。大浦国際墓地を閉鎖する代わりとして1888年(明治21年)、浦上山里村(現在の坂本町・目覚町)に坂本国際墓地が開設された[4][5]。 なお、坂本国際墓地開設と同時に伝染病患者専用として、浦上渕村(現在の竹の久保町)に伝染病墓地が開設されたが[5]、火葬であれば坂本国際墓地に埋葬可能で利用が伸び悩んだことから1920年(大正9年)に閉鎖となった[5][3]。伝染病墓地に埋葬済みの遺体は坂本国際墓地や悟真寺国際墓地に移されている[3][5]。 埋葬されている著名人坂本国際墓地
新坂本国際墓地
著名人の墓
脚注
参考文献
関連項目外部リンク |