土肥淳一郎
土肥 淳一郎(どひ じゅんいちろう、1906年(明治39年)11月20日[1] - 1997年(平成9年)5月3日[2])は、日本の医学者、皮膚科医。東京慈恵会医科大学名誉教授。東京慈恵会医科大学附属青戸病院・東京慈恵会医科大学附属病院院長を歴任し、私学として初の日本皮膚科学会会頭を務めた[3]。医学博士(1937年、東京帝国大学)。 皮膚科学の権威で日本皮膚科学会創立者土肥慶蔵は大叔(伯)父[4]、父は元国立金沢病院院長で日本皮膚科学会名誉会頭土肥章司。 妻・多喜子は陸軍大将本郷房太郎の次女[1]。子の土肥孝夫は、麻布中学校在学中の1954年に内郷丸遭難事件で犠牲となった[5]。 来歴
栄典著書
他、論文多数。 出典
博士論文
参考文献
関連項目外部リンク |