園田博之

園田 博之
そのだ ひろゆき
2004年4月21日、フランスストラスブールにて
生年月日 (1942-02-19) 1942年2月19日
出生地 日本の旗 日本熊本県天草郡河浦町
(現:天草市
没年月日 (2018-11-11) 2018年11月11日(76歳没)
死没地 日本の旗 日本 東京都
出身校 日本大学経済学部
前職 日魯漁業従業員
所属政党無所属→)
自由民主党→)
新党さきがけ→)
(無所属→)
(自由民主党→)
たちあがれ日本→)
太陽の党→)
日本維新の会→)
次世代の党→)
(太陽の党→)
(次世代の党→)
自由民主党(谷垣グループ
称号 従三位
旭日大綬章
経済学士
親族 父・園田直
義母・園田天光光

日本の旗 内閣官房副長官(政務担当)
内閣 村山内閣
村山改造内閣
在任期間 1994年6月30日[1] - 1996年1月11日[2]

選挙区旧熊本2区→)
熊本4区→)
比例九州ブロック
当選回数 11回
在任期間 1986年7月8日 - 2018年11月11日

その他の職歴
第3代 太陽の党党首
2015年1月1日[3] - 2015年4月30日[4]
初代 たちあがれ日本幹事長
代表:平沼赳夫
2010年 - 2012年
初代 新党さきがけ幹事長
議員団座長:堂本暁子
1996年 - 1998年
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園田 博之(そのだ ひろゆき、1942年昭和17年〉2月19日 - 2018年平成30年〉11月11日[5])は、日本政治家位階従三位

内閣官房副長官村山内閣村山改造内閣)、厚生政務次官宮澤内閣)、衆議院法務委員長衆議院議員(11期)、太陽の党党首次世代の党顧問、日本維新の会副幹事長、たちあがれ日本幹事長、自由民主党幹事長代理、同政務調査会長代理、新党さきがけ幹事長、同副代表兼総務会長兼党務幹事、同代表幹事などを歴任[6][7]

父は内閣官房長官外務大臣厚生大臣を務めた園田直、甥はアニメ監督山崎理

来歴

熊本県天草郡河浦町(現:天草市)生まれ。習志野市立習志野高等学校(野球部1期生)、日本大学経済学部卒業。1964年大学卒業後[8]日魯漁業(現:マルハニチロ)に入社し、資材部に配属される。当時の部下に作家の荒俣宏がいた。サラリーマン時代は労働組合委員長も経験するが、1983年に退社する。

政界へ

1984年4月、父・直が腎不全により急死。父の地盤を引き継ぎ、第38回衆議院議員総選挙に父が所属していた福田派の支援を受け、旧熊本2区(定数5)より保守無所属として立候補。中曽根派の支援を受け、同じく無所属で立候補した義母・園田天光光を相手に骨肉の争いを繰り広げた末[9]、熊本2区でトップ当選を果たした(天光光は得票数8位で落選)。当選同期に鳩山由紀夫斉藤斗志二三原朝彦村井仁逢沢一郎金子一義武村正義杉浦正健中山成彬谷津義男新井将敬石破茂笹川堯武部勤井出正一村上誠一郎らがいる。選挙後、自民党に入党した。

1990年2月、第39回衆議院議員総選挙で2期目の当選。

1991年11月、厚生政務次官に就任(宮澤内閣)、翌92年12月の内閣改造で退任。

1993年6月、宮澤改造内閣不信任決議案の採決では反対票を投じたが、内閣不信任案が可決された直後に自民党を離党し、新党さきがけの結党に参加。

細川政権・村山政権から自民復党 

フランスストラスブールで会談する園田(2004年4月21日)

新党さきがけ代表幹事に就任し、同年8月に発足した細川連立政権下で、与党間の政策調整のために設けられた「与党代表者会議」には統一会派を組んでいた日本新党・新党さきがけの両党を代表して出席していた。理想主義のかおりを振りまく新党にあって、園田は専ら地道な政党間調整に汗をかいた[10]。信望が厚く、調整にも長けて細川政権時代は新生党小沢一郎と堂々と渡り合い、「軍師」の異名もあった[11]。 細川政権末期、武村に代わって園田を官房長官に起用する動きが水面下であったが固辞した[11]

1994年自社さ連立政権村山内閣内閣官房副長官に任命される。首相と官房長官を与党経験に乏しい社会党勢が占めた首相官邸に園田が「影の官房長官」として陣取り、自民党や官僚機構の懸念を和らげた[12]田中秀征も、内閣官房副長官を務めた園田の働きは、霞が関や自民党と話が通じ、村山内閣の実質的な官房長官に匹敵する役割を果たしたと高く評価している[13]。この他、新党さきがけでは幹事長や総務会長、副代表を務め、さきがけ出身の議員が一定数所属する民主党にも知己が多い[14]。民主党を旗揚げした鳩山由紀夫が「排除の論理」で武村、園田、田中らさきがけ同期組の合流を拒み、衆院選を目前にして進退窮まった前原誠司、枝野幸男、玄葉光一郎らさきがけの1回生を「君らは民主党に移って生き残れ。いつの日かまた一緒にやろう」と送り出したのは園田だった[12]

1998年のさきがけ解党後、無所属を経て自民党に復党。2000年第42回衆議院議員総選挙以降、自民党公認で4期連続当選。同年の第2次森内閣不信任決議案の採決に際しては、不信任案への賛成を公言した加藤紘一加藤の乱)に同調したが、反対票は投じず、本会議を欠席して投票を棄権した。2002年衆議院法務委員長に就任。

2004年、自民党郵政改革合同部会座長に就任し、郵政国会では郵政民営化法案を会議にかけた。2007年7月の第21回参議院議員通常選挙での惨敗後、退陣を拒否して続投を表明した安倍晋三首相に対し、強硬に退陣を迫った[15][16](安倍は9月に病気辞任)。同年12月、日朝国交正常化を目指す議員連盟「自由民主党朝鮮半島問題小委員会」の設立に参加し、副委員長に就任。

福田政権

与党の政策調整を切り回せる政調会長代理のポストを福田康夫に直訴、与謝野馨を党財政改革研究会の会長に担ぎ出す。「社会保障費はこれ以上は切り込めない。消費税増税で安定財源を確保する以外に財政再建の道はない。次の衆院選で自民党が勝っても、ねじれ国会で政界再編は必至。正しい政策を基軸に再編しなくてはいけない」と、財革研は07年11月、消費税を「社会保障税」に改組したうえ、年金・医療・介護・少子化対策を賄うため2010年代半ばまでに税率を10%まで引き上げるよう提言した[12]

麻生政権

2008年麻生太郎総裁の下で政調会長代理に就任した。園田は麻生内閣経済財政政策担当大臣である与謝野馨に働きかけ、財政再建派の「正しいことを考え実行する会」を設立。上げ潮派中川秀直幹事長らを牽制し、財革研提言を基礎とした消費税・社会保障改革の構想を09年度税制改正法の付則104条に盛り込み、国会の意思とした[12]2009年第45回衆議院議員総選挙では、自民党に猛烈な逆風が吹き荒れる中、熊本4区で8回目の当選を果たした。同年10月、谷垣禎一総裁の下で幹事長代理に就任したが、執行部批判を強める与謝野馨に同調し、2010年3月に幹事長代理を辞任した。同年4月、新党の結成について「自民党から多くの仲間を連れて行き、党を分裂させてケンカをしようという話ではない。民主党に反対したい人たちを自民党だけで吸収できないのであれば、別の党を作ってなるべく多くの人を吸収し、左右から挟み撃ちにして民主党をやっつければいい[17]」「今の自民党では民主党を嫌った人を吸収出来ない。政策が駄目なわけではないが、ゼロからスタートしなければ信用を得られない」「自民の分裂とは言われたくない。県内の兄弟分は誘えない」と述べ、自民党を離党し、反自民の立場ではない新党の結成を示唆した[18]

たちあがれ日本

4月5日、無所属の平沼赳夫経済産業大臣及び与謝野の2人を中心に新党構想が持ち上がっていたたちあがれ日本に参加するため、大島理森自民党幹事長(当時)に離党届を提出した。離党届を提出した後、「参院選で与党を少数に追い込まないと何のチャンスも生まれない。政策変更さえしないだろう。憤りを感じて新党に参加する」「民主党が国民のためにそこそこのことをしていたら、僕らも政権奪還をゆっくりやる。(しかし)民主党は国民の歓心を買うことだけにいよいよ邁進している」と述べ、改めて反自民ではなく反民主の新党であるとの認識を示し[19]、4月10日に結党したたちあがれ日本の幹事長に就任。園田の離党届は4月27日の自民党党紀委員会で了承された[注 1]2012年11月、石原慎太郎を党首に迎える形でたちあがれ日本が党名を変更し、太陽の党を結党[注 2]

日本維新の会

2012年11月16日、太陽の党は、石原慎太郎・橋下徹大阪維新の会代表)のトップ会談により、結党からわずか4日で日本維新の会へ合流する方針を決定し、解党。園田ら太陽の党所属の国会議員も、日本維新の会に合流した。同年12月の第46回衆議院議員総選挙では熊本4区から日本維新の会公認で立候補し、9回目の当選を果たした。同党の比例九州ブロックエリアにおける唯一の選挙区当選者である。なお熊本4区には自民、民主両党がいずれも候補者の擁立を見送った。選挙後、日本維新の会国会議員団幹事長代理および日本維新の会執行役員副幹事長に就任。

次世代の党

2014年8月1日、日本維新の会分党にともない次世代の党結党に参加、名誉職的地位である「顧問(渉外担当)」に就任した。党役員一覧では最高顧問である石原慎太郎と党首である平沼赳夫の間に列記されていた。なお、同月26日江口克彦が入党した際、江口の職位も園田と同じ「顧問」とされ、このときから「(渉外担当)」の表記がなくなった。同年12月の第47回衆議院議員総選挙では熊本4区で10選。同月25日に両院議員総会長に就任。

太陽の党

2015年1月8日、次世代の党を離党し、太陽の党に移籍した上で党首に就任した。同年5月1日、太陽の党解党により次世代の党へ復党した。

再び自民へ

2015年6月、第189回国会閉会後に次世代の党を離党し自民党へ復党申請をすることを表明[20]。9月25日、前党首・平沼赳夫と共に正式に離党[21]。幹事長になっていた谷垣禎一の骨折りもあり[12]、10月2日、自民党党紀委員会は、「政治家としての2人の経験や見識を、今後は自民党の活動で生かしてもらうべきだ」などとして平沼とともに園田の復党を了承した[22]小泉進次郎の懇請で「2020年以降の経済財政構想小委員会」の顧問を受けた。

2017年10月の第48回衆議院議員総選挙では、熊本県内の小選挙区の区割変更に伴い、比例九州ブロックへ転出。自民党では73歳定年制の例外扱いとされた。比例名簿単独1位により、11選[23]

2017年より肺がんの治療をしながら議員活動をしていたが、2018年11月11日、肺炎のため、東京都の病院で死去[24][25]。76歳没。死去に伴い、次点の宮崎政久11月21日繰り上げ当選した。後日、日本国政府は死没日付をもって従三位に叙し、旭日大綬章を追贈した[26][27]。墓所は港区林泉寺

政策

  • 2014年の時点では、選択的夫婦別姓制度導入について、「どちらとも言えない」としている[28]。なお、1998年、同制度を求める請願を提出している[29]
  • 郵政民営化の際、「みんなが不安を持っているのは、計画どおり本当にうまくいくのかどうか。採算だって、言われるように、新しい事業を始めて、そういうのが本当に実になっていくのかどうか。それを目指して頑張らなければいかぬわけですが、非常に心配事が多い…」、「郵便局で三つのサービスがずっと行われているかどうか。そういうこともよく検証して、もしそれに支障が出てきている場合にどういう施策を講じるのか。そういうことも必要だ…」と答弁した[30]

人物・エピソード

  • 政界再編論者であり、政界では「策士」「寝業師」の評がある[31]。新党さきがけの中心人物として、細川政権など政界再編期における活躍で知られるが、本人が政界再編で考えていたのは自民党と対抗しうる中間的な政党を育てることであり、一連の動きは本意ではなかったという。しかし小沢一郎が「組織力のある公明・社会党を核に結集すれば十分選挙で戦える」と選挙優先で考え、小選挙区制への選挙制度まっしぐらになってしまったと振り返る。その反省に立ち選挙制度改革を再び行い、衆議院については中選挙区制に戻すべきだと語っている[32]
  • 本人自身も閣僚にならず、大臣病とも無縁、「政界の名門」というだけで大臣の椅子や党の重職が転がり込む「一般の世襲議員」とは一線を画していた[11]
  • 無類の政策通だが「政局は苦手」な与謝野と、与野党に顔が広い政略家の園田の盟友関係を財務省も頼りにした[10]

不祥事

所属団体・議員連盟

脚注

注釈

  1. ^ なお与謝野の離党届は受理されず、除名処分が下った。
  2. ^ 解党ではなく党名の変更に留まったのは、たちあがれ日本が解党した場合、たちあがれ日本に対する政党助成金が受給できなくなるためである。

出典

  1. ^ 『官報 平成6年特別号外第19号1頁 人事異動 内閣』(プレスリリース)国立印刷局、1994年6月30日。 
  2. ^ 『官報 平成8年特別号外第2号1頁 人事異動 内閣』(プレスリリース)国立印刷局、1996年1月12日。 
  3. ^ 2015年(平成27年)3月12日総務省告示第77号「政党助成法第五条第一項の規定による政党の届出があったので公表する件」
  4. ^ 2015年(平成27年)7月28日総務省告示第254号「政党助成法第二十一条第一項の規定による政党の解散等の届出があったので公表する件」
  5. ^ 園田博之衆院議員が死去 村山内閣で官房副長官”. 日本経済新聞 (2018年11月11日). 2024年11月11日閲覧。
  6. ^ “国会議員情報 園田 博之(そのだ ひろゆき)”. 時事ドットコム (時事通信社). https://www.jiji.com/sp/giin?d=87ff70bf7f08874a2f358470fa103a5c&c=syu 2024年3月3日閲覧。 
  7. ^ “園田衆院議員が次世代離党 太陽の党代表に”. スポニチアネックス (スポーツニッポン新聞社). (2015年1月9日). オリジナルの2015年1月12日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20150112055622/http://www.sponichi.co.jp/society/news/2015/01/09/kiji/K20150109009599750.html 2024年3月3日閲覧。 
  8. ^ 国会議員情報:園田 博之(そのだ ひろゆき)”. 時事ドットコム. 時事通信社. 2024年11月11日閲覧。
  9. ^ 「岸田首相長男の更迭で思い出した園田博之さん…「世襲政治家」だが苦労人だった」 読売新聞オンラインWebコラム「編集委員の目」 編集委員 吉田清久 2023/07/18
  10. ^ a b 政界再編追った「無冠の仕事師」園田博之氏 日本経済新聞編集委員 清水真人,日本経済新聞,2018年11月20日
  11. ^ a b c 「岸田首相長男の更迭で思い出した園田博之さん…「世襲政治家」だが苦労人だった」 読売新聞オンラインWebコラム「編集委員の目」吉田清久,2023/07/18
  12. ^ a b c d e 政界再編追った「無冠の仕事師」園田博之氏 編集委員・清水真人,日本経済新聞,2018年11月20日
  13. ^ 田中秀征「平成史への証言 政治はなぜ劣化したか」P203
  14. ^ 日本経済新聞平成21年(2009年4月15日
  15. ^ 「<反安倍グループ>津島、山崎、谷垣派の議員が勉強会」、毎日新聞、2007年8月8日
  16. ^ 「反安倍派 結集へ」、スポーツ報知、2007年8月9日
  17. ^ “園田氏 新党で与党を追い込む”. NHKニュース. (2010年4月3日). http://www3.nhk.or.jp/news/html/20100403/t10013616771000.html 2010年4月5日閲覧。 [リンク切れ]
  18. ^ 結城かほる (2010年4月4日). “新党:園田氏、結成の狙い説明 地元・山都で国政報告会 /熊本”. 毎日jp(毎日新聞. http://mainichi.jp/area/kumamoto/news/20100404ddlk43010372000c.html 2010年4月5日閲覧。 [リンク切れ]
  19. ^ “自民離党の園田氏「与党を参院選で少数に追い込む」”. 日本経済新聞. (2010年4月5日). オリジナルの2010年7月22日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20100722091458/http://www.nikkei.com/news/category/article/g%3D96958A9C9381949EE2E7E2E7E48DE2E7E2E6E0E2E3E2E2E2E2E2E2E2%3Bat%3DALL 2010年4月5日閲覧。 
  20. ^ “次世代の園田氏、自民復党へ 今秋臨時国会までに” 日本経済新聞2015年6月3日
  21. ^ 平沼、園田氏の離党了承=次世代 Archived 2016年3月9日, at the Wayback Machine. 時事通信2015年9月25日
  22. ^ 自民 平沼氏と園田氏の復党を了承 NHK
  23. ^ 九州ブロック(比例区)-開票速報-2017衆議院選挙(衆院選):朝日新聞デジタル
  24. ^ 衆院議員の園田博之さんが死去 村山内閣で官房副長官”. 朝日新聞デジタル (2018年11月11日). 2020年11月4日閲覧。
  25. ^ 自民・園田博之衆院議員が死去 - 熊本日日新聞 2018年11月11日
  26. ^ 故園田博之氏に従三位 - 時事ドットコム 2018年12月7日
  27. ^ 『官報』7407号、平成30年12月11日
  28. ^ 朝日新聞、2014年衆院選、朝日・東大谷口研究室共同調査
  29. ^ 第142回国会 - 衆議院 - 法務委員会 - 19号 平成10年06月18日
  30. ^ 2005年(平成17年)6月9日 第162回国会 郵政民営化に関する特別委員会 第11号 11番目の答弁
  31. ^ 盟友・与謝野氏が裏切り入閣 たちあがれ日本園田氏“最後の秘策”
  32. ^ (平成とは 第2部・国のかたち)官邸が人事権、萎縮・劣化する省庁:朝日新聞デジタル”. 朝日新聞デジタル. 2020年12月29日閲覧。
  33. ^ “園田氏、林田氏も未納判明/両氏とも勘違いと弁明”. 四国新聞. (2004年5月4日). https://www.shikoku-np.co.jp/national/political/20040504000147 2016年6月25日閲覧。 
  34. ^ 園田博之氏 200万円不記載 政治献金、規正法違反疑い 毎日新聞 2017年12月1日
  35. ^ 自民:「借りたつもり…」園田博之氏、現金授受認める”. 毎日新聞 (2018年1月22日). 2024年11月11日閲覧。
  36. ^ 園田氏が行政側に再調査口利きか NPOの追徴課税処分巡り”. 産経WEST (2017年12月13日). 2017年12月15日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年11月11日閲覧。
  37. ^ “東京地検 園田博之衆院議員を不起訴 政治資金認定困難か”. 毎日新聞. (2018年10月10日). https://mainichi.jp/articles/20181011/k00/00m/040/096000c 2018年10月17日閲覧。 
  38. ^ 日本会議HP 2011年(平成23年)4月22日 歴史誤認の「日独友好決議」が強行採決!-日本会議国会議連、退席を呼びかけ
  39. ^ 文藝春秋2008年3月10日 “与謝野救国政権”への不気味な胎動
  40. ^ 日中友好議連、唐元国務委員と会談 日本経済新聞(2014年5月4日)
  41. ^ 超党派ゴルフ議員連盟が設立される。 署名簿を提出、利用税廃止を要望|JGA 日本ゴルフ協会

関連項目

外部リンク

議会
先代
保利耕輔
日本の旗 衆議院法務委員長
2002年
次代
山本有二
公職
先代
北村直人
日本の旗 内閣官房副長官(政務担当)
1994年 - 1996年
次代
渡辺嘉蔵
党職
先代
西村眞悟(代表)
太陽の党党首
第3代:2015年
次代
次世代の党と合併
先代
中山成彬
次世代の党両院議員総会長
第2代:2014年 - 2015年
次代
江口克彦
先代
中山成彬
次世代の党代議士会長
第2代:2014年 - 2015年
次代
(空席)
先代
結成
たちあがれ日本幹事長
初代:2010年 - 2012年
次代
日本維新の会に合流
先代
名称変更
新党さきがけ幹事長
初代:1996年 - 1998年
次代
奥村展三
先代
結成
鳩山由紀夫
新党さきがけ代表幹事
初代:1993年 - 1994年
第3代:1996年
次代
鳩山由紀夫
名称変更