國吉清尚
國吉 清尚(くによし せいしょう、1943年(昭和18年)9月28日 - 1999年(平成11年)5月10日)は首里城南殿生まれの陶芸家。(国吉清尚) 那覇高校卒業、1963年陶工として壺屋の陶工小橋川永昌に師事し、壺屋の修行時代に人間国宝濱田庄司と出会い、1966年栃木県益子の県立窯業指導所で神崎正樹の元で修行。濱田庄司、加守田章二に私淑。1968年沖縄に戻り読谷に自らの工房(ヒメハブ窯)を開いた。沖縄への帰郷時に浜田庄司から「一番優秀だから益子に残るように」引き留められている[1]。 1973年秦秀雄が清尚の窯を訪ねる。1975年秦秀雄が季刊「銀花」で紹介。 1992年に那覇で開かれた展覧会のタイトルが「僕ハモットツヨククナリタイ 國吉清尚黒陶展 華器 武器 秘器」であった。 1972年に 金城次郎が読谷村(国吉清尚工房の隣に)移転した時は「あなたが居たから僕らも読谷に来ることができた」(「あんたがいるからここにするさー」)と国吉に謝意を述べている[2]。 国吉は骨董や古い陶器の欠片にも尋常ではない情熱を傾け、気に入ったモノは枕元に置き、目覚めては眺め、磨いては眺めを繰り返した。制作の時は、大作でもひと息で作り上げるような勢いであった[3]。 國吉清尚は壺屋焼の窯元・仁王窯で修業を積み、その後、神崎正樹の元で学び、沖縄に戻ってからは読谷村を拠点に作陶を続けた。沖縄の土味を生かした焼き締めの作品を中心に、伝統に学びながら独自の作風を築き上げ、特にオブジェの制作では沖縄の陶芸界で先駆け的存在である。[4][5][6][7]。 娘の國吉真由美(国吉真由美)は県立芸大卒後、陶芸家の道へ進み前衛的な作品・花器やカップ、など土の温もりが感じられる作品を作陶している[8]。 弟の國吉清雲(国吉清雲)は2014年第44回全陶展で「奨励賞」を受賞[9]。2013年、2019年に沖縄県立博物館において国吉清尚&国吉清雲 兄弟展[10]、2012年には沖縄県立博物館において、2014年、2023年には那覇市立壺屋焼物博物館にて陶芸家國吉清雲個展を開催[11][12]。 國吉は「作品は購入した人の手に渡れば、そこからは自由。こうして欲しいという執着はない」と述べている[13]。 常に前へ前へ進む作家で、同じものは2度と造らないと言われるほどに意欲に富んだ作家であった。特に沖縄にある土などの材料すべてを練りこんだ焼き物を焼くべく研究を重ねていた。また、強いものに憧れ、自分の魂を吹き込むような作陶姿勢であったと言われている。「炎の陶芸家」とも言われ特異な作家であった。 また、武道家とも知られ、剛柔流七段(空手・読谷支部長)の猛者でもあった。飲み屋でからまれた時は絶対手を出さずにやられっぱなしでボコボコされていたが、「俺が手を出したら相手が死んでしまう。(自分が手を出したら相手が死ぬ)」と述べている[14]。 壺屋焼・読谷焼・読谷山焼壺屋焼 :1682年~ 読谷焼 :1968年~ (國吉清尚窯)・(金城次郎窯) 読谷山焼:1992年~ (北窯)・(松田米司、松田共司、宮城正享、興那原正守)[15] 経歴
評伝・作品集1981年の個展に添えて、加守田章二は「國吉は沖縄の王様のような顔をしている。学生時代より益子に来ては神崎さんの仕事場で主に食器類を作っていた。素直な心の通ったもので我が家では大変気に入り使わせてもらった。國吉は当時より古い工芸品に興味を持ち特に沖縄の古いものを沢山集めていた。益子の浜田庄司も國吉に大変興味を示していた。最近國吉が沖縄でオブジェを作っていると聞き少しびっくりした。作品を写真で見ただけだが、國吉の仕事だからきっと心の行き届いた温か味のあるものであろうと期待している」と述べている[20]。 丹尾安典(早稲田大学)の國吉清尚研究濱田庄司は國吉の弟の國吉清雲に「お兄さんは若手では益子で一番有望、沖縄に戻らないで益子に居るようにさせなさい」と述べているが、國吉清尚は沖縄に帰り読谷に窯を開いた。 1973年に秦秀雄が清尚の窯を訪ねる。秦秀雄は鹿児島で偶然目にした國吉の丸文土瓶に惚れ込み読谷に来た。「国吉は沖縄の手練れの伝統工芸家と思い込んでいたが、若い青年であった事に大変驚いた。」國吉は秦秀雄の陶芸雑誌での紹介により沖縄陶芸界の新鋭として脚光をあびた。しかし、國吉は伝統陶芸を極めた今、あえて前衛陶芸に傾倒した。 國吉は高評価を受けた真っただ中で日用雑器制作を捨て、オブジェにうちこむようになる。秦秀雄の評価に感銘を受けた黒田陶苑店主、黒田和哉は國吉の土瓶展を企画し1980年沖縄へ飛ぶが、彼の工房に土瓶は1点もなくオブジェの洪水に絶句する。これまでの作陶を一度ご破算にして0地点から新たに創造を開始した國吉清尚とは正に伝統工芸から前衛芸術までを一気に走り抜けた陶芸家であった[21]。 2017年放映 開運!なんでも鑑定団において國吉清尚は、生涯沖縄の土と格闘し続けた陶芸家である。 國吉の名を世に知らしめたのは、井伏鱒二の小説「珍品堂主人」のモデルの古美術研究家・秦秀雄である。秦は、鹿児島の料理店で偶然目にした國吉の何のてらいもない丸紋土瓶に惚れ込み、1975年発行の雑誌「銀花」でこれを激賞。國吉は沖縄陶芸界の新鋭として大きな脚光を浴びた。 だが、もとより売れることを目指す気は毛頭なかったため、すぐさま土瓶づくりはやめてしまい、その後は自らの思いを沖縄の土に練り込み炎に託して放出するかの如く、様々なオブジェに力を注いだ。その作陶は既成概念にとらわれず奔放で、例えば陶芸では通常数種類の土を混ぜて陶土とするが、國吉は土味を殺すからとこれをやめ、この土味を最大限に活かす焼締だけでなく、ガジュマルや琉球松の灰などでつくった釉薬を用いたり、海水の微量成分の釉薬効果を狙い珊瑚を作品の傍や中に置いたりもした。 他方、最も嫌ったのは狎れ (なれ) や媚 (こび) で、國吉の作陶は常に素手で白刃に立ち向かうかの如き緊張感に満ちている。そのため、一見無手勝流のようだが隙や遊びはなく、そのすべてに動と静、緩と急が呼吸の如く息づいている。しかし、國吉の感受性はガラスの如く繊細であり、実直・誠実・心根の大変優しい人柄であった。と述べられている[22]。 土井善晴のやちむんマカイ料理研究家の土井善晴は國吉作の茶碗、雑器類を中心に数十点を愛用している。土井はいつも箱書とか箱は要りません、そばに置いて使うので必要ないと述べている。(相対的な価値観ではなく絶対的な価値観で 國吉作品を蒐集している)。[23][24][25]。 秦秀雄が丸紋土瓶と巡り合う1971年末、鹿児島の郷土料理屋で土瓶に会う。この大胆な、そして不敵な面構えをした土瓶は、いったい誰がどこでいつ頃こしらえたものか?私は目を見張らずにおれなかった。日本全土、土瓶づくりに専念し、その美作に成功した陶人を私は知らない。とっくに諦めていた。そこへ思いもかけずにこの丸紋土瓶、びっくりした私は性急にその作家が誰であるか尋ねている。沖縄の国吉某の作とのこと。私は沖縄へ出かけて國吉さんを訪ねる。この佳作は沖縄の陶芸の伝統に根ざした手練れの老人の作に間違いないと確信した。今のうちに探し尋ねて会っておかなければならない。 そうして20幾つしかないという土瓶を二つ無理に譲り受けて東京へ帰る。 翌1972年の春に、沖縄へ行く。何処にも寄らずに國吉さん宅へ向かった。国吉清尚氏は、屈強な青年で空手六段。私が予想した、やがて滅びようとする伝統陶芸家ではなく、國吉さんによって発明工夫された土瓶工芸の新興開発者であった。図案が卓抜で多少粗暴な作り映え、それがこの土瓶に生気をもたらした。見て、使って、なんと快適な土瓶だろう。 一時話し込んで、國吉さんの陶房へ出向く、その時目についたものはみんな送り付けてもらって私はこれらを常用し、人にも吹聴して贈り物としたりした。 ちまたには、ろくでも無い物しかない。そんな時、なんと沖縄でこの土瓶が静かに作られていた。日本の新しい陶芸が誕生したのである。 この喜ばしい出来事が、沖縄の陶房に起こっていた。それは古作品にさえ見かけられない優品であった。年老いた伝統工芸に根ざした最後の一人に会いに行くと思いめぐらしていたが、年若い頑丈な陶人の開発工夫した新製どびんであった。 この洋々たる前途を抱えた陶人、私が沖縄で奇跡的に出会た国吉清尚さんであった[26][27]。 関連項目脚注
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