回回砲回回砲(かいかいほう)、もしくは西域砲・巨石砲・襄陽砲とは、大型の投石機である。 概要西アジアの投石機であるトレビュシェットが、元軍によって中国に導入された時の名称である。回回とは西アジアの事であり、襄陽は地名であり、後述の通り襄陽・樊城の戦いにおいて実戦投入された事に由来する。 モンゴル人がペルシアに遠征した時、この地に優れた投石機があることを発見した[1]。その砲身は木で造られ、用いる弾石は150斤(90kg)、射程は400mほどあり[2]、落ちた時も7尺(2m)もめり込み[3]、威力は甚大だった。 至元八年(1271年)、元の世祖クビライはペルシアのイルハン朝王のアバカ(阿八哈)に使者を派遣し、砲匠の阿老瓦丁(Ala al-Din、アラーウッディーン)と亦思馬因(Ismail、イスマイル)が徴発された。至元九年(1272年)十一月、阿老瓦丁は回回砲を制作し、大都の午門(正門)での試射が成功した。至元十年(1273年)、フビライは回回砲の砲匠を樊城と襄陽に派遣し、砲の制作と攻城をさせた。『集史』によれば、攻城に参加する回回砲手には、亦思馬因と阿老瓦丁以外にも二人のダマスカス人がいたという。元軍が長江を渡って南下してから、江南の戦場で、『元史』阿老瓦丁伝によれば、回回砲は「毎戦これを用い、全てで効果があった(毎戦用之,皆有功)」という[4]。 宋と元の襄陽・樊城の戦い中、元軍が使用した回回砲が襄陽の譙楼に命中し、「その音は雷のようであり、城中を震わせた。城中は騒がしくなり、多くの武将が城を逃げて降伏し(聲如雷霆,震城中。城中洶洶,諸將多踰城降者)」、宋将の呂文煥は敵わないと知り、降伏した[5]。 至元十一年(1274年)、元朝は回回砲手総管府を置き、阿老瓦丁をその管軍総管と宣武将軍にした。至元二十二年(1285年)に回回砲手軍匠上万戸府と改名した。南宋も回回砲を模造しようと試み、『宋史』兵志十一によれば、「咸淳九年(1273年)、沿辺州郡因降式、制回回砲。有觸類巧思,別置砲遠出其上」という。 宋人の鄭思肖は『鉄函心史』で「この回回砲法は、元々回回国から出た物だが、普通の砲より威力がある(其回回砲法、本出回回國、甚猛於常砲)」とし、「この『回回砲』は、普通の砲より威力がある。これを用いて城に打ちいれば、寺院や道観や楼閣は、ことごとく砕ける(其回回砲甚猛于常砲,用之打入城,寺観楼閣、盡為之碎)」と記載する。この「普通の砲」とは三国時代に発案されたと伝わる霹靂車の事で、西欧におけるマンゴネルに相当する人力式の投石機である。 宋人の徐霆は回回砲に対し、「回回の様々な職人の技術は精緻であるが、攻城の道具は最も精緻である(回回百工技藝極精,攻城之具尤精)」と評価したが、この「攻城之具」とはつまり回回砲である[4]。 脚注
参考文献
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