嘉村礒多嘉村 礒多(かむら いそた、1897年(明治30年)12月15日 - 1933年(昭和8年)11月30日)は、日本の私小説家。山口県吉敷郡仁保村(現在は山口市仁保)出身。わずか6年間に約30の短編小説を書いたのみだが私小説作家として当時高い評価を得た[1]。 人生問題に悩み、近角常観に傾倒。妻の婚前の男関係に悩んだ末、妻子を捨てて、愛人と駆落ちして上京。『不同調』記者となり、同誌に発表した『業苦』『崖の下』で注目された。葛西善蔵に強く影響され、『途上』で文壇に地位を確立するも、翌年病没。厳しい倫理観を基調に、自己を告白した独自の作風で、いわゆる破滅型私小説の代表的存在と目された。 生涯1897年(明治30年)12月15日、父・若松、母・スキとの間に生まれる。実家は農業を営む、裕福な地主であった。三代にわたって跡取りに恵まれなかった嘉村家にやっと生まれた男児であったため大切に育てられ、成績もよかったが、背が低く色黒だったことから「黒磯」とあだ名され、それをひどく苦にした[2]。 旧制山口中学に入学後、徐々に人との交流を望まない性格になり、1914年(大正3年)、無断欠席が重なり4年生で退学。その後は実家に戻り、家業の農業を手伝うようになる。強い心の支えを求めていた嘉村は、帰農後にキリスト教に接近するが、信者となるには至らなかった。しかし彼の心は常に頼れるものを追い求め、その後、浄土真宗本願寺派僧侶の桃林皆遵の影響で、熱心な浄土真宗信者となり、桃林を通じて、真宗大谷派僧侶の近角常観を知る。 1915年(大正4年)、綱島梁川に傾倒、私淑するようになる。同年、結婚をめぐって両親と対立。 1918年(大正7年)、藤本静子と結婚。静子に前夫が居た等、品行が悪いとの噂を聞き、結婚を渋るが、家の体面を守るため式を挙げる。結婚後も夫婦は不仲であった。 1924年(大正13年)、私立中村女學校に書記として勤務。同校の裁縫教師小川ちとせと恋に落ち、1925年(大正14年)、妻子を捨て、小川ちとせと駆け落ちすることになる。この間、水守亀之助、安倍能成に師事している。安倍に芥川龍之介の弟子になりたいので紹介してくれと頼むも叶わず[3]。 1926年(大正15年)、中村武羅夫の主宰する雑誌「不同調」の記者となり、葛西善蔵等の知己を得、葛西の口述筆記にたずさわる。同誌に「業苦」「崖の下」を発表。これらに対する宇野浩二の言及から文壇の注目を浴びた[4]。 1929年(昭和4年)「近代生活」創刊に際して同人となる。翌年、新興芸術派倶楽部に参加。1932年(昭和7年)「途上」(『中央公論』2月)で文壇的地位を確立した。 1933年(昭和8年)11月30日、結核性腹膜炎のため東京市牛込区矢来町(現・東京都新宿区矢来町)の仮寓(中村武羅夫邸)で死去。戒名は天稟院文賢独秀居士[5]。翌年、横光利一、宇野浩二、小林秀雄らによって3巻の全集(限定1000部)が刊行された。 評価の変遷嘉村が生きていた当時は、駆け落ちしたことや愛想の悪さから、地元の評判は良くなかった。しかし礒多は望郷の念を生涯忘れなかったという。「私は都会で死にたくない。異郷の土にこの骨を埋めてはならない」 礒多は随想「『上ケ山』の里」で、そのように記述している。 実家はまだ当時のままに保存されており、地域住民の働きかけによる保存運動が活発になっている。2010年(平成22年)11月には生家が「嘉村礒多生家」として整備され、観光拠点となっている。なお「礒多が餅」なる嘉村にちなんだお菓子も販売されている[6]。 なお、駆け落ち相手の小川ちとせは嘉村の死後、18歳年下の男性と再婚しているが、周囲には旦那より1歳年下と年齢を誤魔化しており、しかも周囲の人間はそれに気付かなかったという逸話も残っている。ちとせは再婚後も礒多の作品を世に出すことに努めた。ちとせは戦時中に下松市の実家松永家に礒多の未発表作品を預けたが、その未発表作品は結局、戦災で焼失した。 山本夏彦はコラムで複数回嘉村について触れている[7][8][9]。また高島俊男は自らの室号「羸鶴」を、嘉村の『足相撲』(師の葛西を扱ったもの)という作品から取っている。高島はコラムで「嘉村礒多なんて今の人はご存知あるまいが、昭和初期の私小説作家で、貧乏と病気の隊長みたいな人である」と述べている[10]。古田博司は嘉村には全集もあるが、身の回りのこと一辺倒の作品で、葛西同様に日本文学史の闇に消えたと評している[11]。大内力は嘉村の『途上』を、梶井基次郎 『檸檬』や牧野信一 『鬼涙村』とともに、昭和文学史上に残る作品であろうと評している[12]。 作品その作品の多くは、人間の持つ醜悪な部分を告白するスタイルで書かれ、「私小説の極北」と評されている[13]。 小説
随筆
出版
脚注
参考文献
関連項目外部リンク |