吳 章銀(オ・ジャンウン、1985年7月24日-)は、韓国出身の元サッカー選手。現役時代のポジションは主に守備的ミッドフィールダー。日本でのニックネームは「チャン」[1][2]。
来歴
小学校4年生の時にサッカーを始める[1]。韓国の中学校全国大会で優勝した後[3] ベルギーへ渡り半年間プレー[4]。
2001年に訪日し[3]FC東京U-18に入団。同期には梶山陽平、李忠成、鎌田次郎、斎藤雅也。当初は日本語が不自由だったため李が通訳を務めていた[5][注 1]。日本の高校に通いつつ[3]、2002年に能力を買われてトップチームに選手登録されると、同年4月のJ1第6節G大阪戦(万博)にて16歳8ヶ月20日でデビュー[7]。後に森本貴幸が更新(15歳10ヶ月6日)するまでの約2年間、J1リーグ最年少出場記録を保持していた。
2004年より梶山、李と共にプロ契約を結び[8]、主に右サイドバックで試合経験を重ねた[3]。同年オフ、クラブ首脳陣は吳が翌年からA契約選手として外国籍選手出場枠の制限[注 2] を受けるため、出場が難しくなると判断[3][2]。当初はJ2クラブへの[9]期限付き移籍が図られたが[2]、吳はU-20韓国代表として2005年のワールドユース出場を目指す上では、日本の2部リーグよりもKリーグ(韓国1部リーグ)に移籍した方が代表スタッフの目に留まり合流も容易になるので有利と考えたため[9]、クラブとしてもこの希望を汲み[2]、帰国することになった。この際、将来再び日本でプレーしたいとコメントを残している[9]。
2005年からはKリーグ・大邱FCに移籍し[10]、ボランチとしてプレー。ボランチでの自身のプレーについては「攻守のバランスをとり、見えないところでチームを助ける役割を担っている」と語る[11]。球際の強さと高いパスセンスを発揮し[3]、2006年のKリーグ第19節全北現代戦ではハットトリック達成[11]。また、韓国A代表として試合出場も果たした。
2007年は、FA権取得者の中で最大の目玉選手と目され、済州などが獲得を目指していたが[12]、中盤での豊富な運動量を評価していた[13]蔚山現代FCへ移籍[12]。同年7月に行われたAFCアジアカップに於いても韓国代表に選ばれ、日本代表との対戦となった3位決定戦で守備的MFとして先発出場、日本の攻撃陣(主に高原直泰・山岸智のマークについた)を封じ韓国の3位入賞に貢献した。2008年北京オリンピックを目指す韓国オリンピック代表チームの中核として常時招集され、本大会にも出場した。2010年には東アジア選手権決勝大会に廉基勳の負傷を受けて追加招集され[14] 全3試合に出場した。
2011年より水原三星ブルーウィングスに所属。当初は趙源熙とのトレードとされており、これが不調に終わったものの、尹星孝 (en) 監督の強い要望により移籍が実現した[15]。水原ではボランチに加え、左右のSBや攻撃的MF、シャドーストライカーとしてもプレー[16][17]。マルチプレーヤーとしてチームを支え、水原の「隠れた英雄」とも評された[17]。2013年より水原の監督を務めた徐正源からの評価も高く、A代表に推薦する選手として名前を挙げられた[18]。この年はチームの副将だったが、負傷中の主将金斗炫に代わって[19] ゲームキャプテンを務めることが多く、持ち前の豊富な運動量を活かし[20] 攻守でチームを支えた[21]。2014年も続けて副将を担い[22]、兵役中の呉範錫に代わる右SBを任されるも、甲状腺機能亢進症罹患と[23] 膝の負傷による欠場が続いた[24][25]。稼働率低下と高給によって2015年限りで契約を打ち切られたが[26]、2016年2月に再契約を結んだ[27]。同年4月の仁川戦で948日ぶりに公式戦得点を記録。[25]結果として、これが現役時代で公式戦最後のゴールとなった。
2017年、2部となるKリーグチャレンジ所属の城南FCへ完全移籍[28]。2018年には同リーグが改称したKリーグ2の大田シチズンに所属した。
2019年はドイツで指導者研修を受けるかたわらで新たなチームを探していたが、最終的に現役続行を断念し、34歳の誕生日となる7月24日に引退を表明した。一連の経緯は翌25日に韓国のニュースサイト「news1」でインタビュー記事が掲載された[29]。
2020年には初の正式な指導者契約を古巣のFC東京と結び、小学生向けのサッカースクールコーチとして活動した[30]。2020年12月29日、朴建夏監督が率いる水原三星とセカンドチームのコーチとして契約を結び[31]、2022年からはトップチームのコーチとなった。
エピソード
所属クラブ
- ユース経歴
- 西帰浦小学校
- 朝天(ジョチョン)中學校
- 2001年 - 2003年 FC東京U-18
- プロ経歴
個人成績
国内大会個人成績 |
年度 | クラブ | 背番号 | リーグ |
リーグ戦 |
リーグ杯 | オープン杯 |
期間通算 |
出場 | 得点 |
出場 | 得点 | 出場 | 得点 |
出場 | 得点 |
日本
| リーグ戦 |
リーグ杯 | 天皇杯
|
期間通算
|
2002 |
FC東京 |
33 |
J1 |
2 |
0 |
1 |
0 |
0 |
0 |
3 |
0
|
2003 |
4 |
0 |
3 |
0 |
1 |
0 |
8 |
0
|
2004 |
4 |
7 |
0 |
4 |
0 |
0 |
0 |
11 |
0
|
韓国
| リーグ戦 |
リーグ杯 | FA杯
|
期間通算
|
2005 (en) |
大邱 |
30 |
Kリーグ |
16 |
3 |
7 |
0 |
1 |
1 |
24 |
4
|
2006 (en) |
24 |
6 |
8 |
0 |
2 |
0 |
34 |
6
|
2007 (en) |
蔚山 |
16 |
17 |
0 |
7 |
0 |
3 |
1 |
27 |
1
|
2008 (en) |
24 |
2 |
9 |
0 |
3 |
1 |
36 |
3
|
2009 (en) |
24 |
4 |
4 |
0 |
0 |
0 |
28 |
4
|
2010 (en) |
28 |
1 |
5 |
1 |
2 |
1 |
34 |
3
|
2011 (en) |
水原 |
9 |
30 |
4 |
0 |
0 |
4 |
1 |
33 |
5
|
2012 (en) |
26 |
1 |
- |
2 |
0 |
28 |
1
|
2013 (en) |
Kクラシック |
34 |
1 |
- |
2 |
0 |
36 |
1
|
2014 (en) |
12 |
0 |
- |
1 |
0 |
13 |
0
|
2015 (en) |
0 |
0 |
- |
0 |
0 |
0 |
0
|
2016 (en) |
66 |
7 |
1 |
- |
0 |
0 |
7 |
1
|
2017 (en) |
城南 |
49 |
Kチャレンジ |
|
|
- |
|
|
|
|
通算 |
日本 |
J1
|
13 |
0 |
8 |
0 |
1 |
0 |
22 |
0
|
韓国 |
Kクラシック
|
242 |
23 |
40 |
1 |
20 |
5 |
302 |
29
|
韓国 |
Kチャレンジ
|
|
|
- |
|
|
|
|
総通算
|
248 |
22 |
48 |
1 |
21 |
5 |
317 |
28
|
代表歴
- U-15韓国代表
- U-19韓国代表
- U-20韓国代表
- U-21韓国代表
- U-22韓国代表
- U-23韓国代表
- 韓国代表
試合数
- 国際Aマッチ 14試合(2006年-2010年)[35]
韓国代表 | 国際Aマッチ |
年 | 出場 | 得点 |
2006 |
1 |
0
|
2007 |
6 |
0
|
2008 |
3 |
0
|
2009 |
1 |
0
|
2010 |
3 |
0
|
通算 |
14 |
0
|
タイトル
脚注
- 注釈
- ^ トップチームに昇格する頃にはほぼ問題なく日本語を身に付け、「李の話す韓国語よりも自分の日本語の方が上手い」と話していた[6]。日本メディアに対しての記者会見の際には、日本語で語ることもある。
- ^ 当時はいわゆる「アジア枠」(AFC加盟国の国籍を持つ選手に対しての外国籍枠。2009年度より導入)が存在しなかった。
- ^ 造語。漢字表記を当てると「蹴幸」。「축구로(サッカーで) 만드는(作る) 행복(幸福)」を短縮したもの[33]。
- 出典
- ^ a b 『FC東京ファンブック2004』毎日新聞社、2004年、51頁。
- ^ a b c d “365日FC東京 強化部発 <第3回>”. 2005年11月22日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年3月11日閲覧。 東京中日スポーツ (2005年4月13日)
- ^ a b c d e f JOMO CUP 2008 特別コラム ぴあ
- ^ 『FC東京ファンブック2003』毎日新聞社、2003年、72-74頁。
- ^ 慎武宏『祖国と母国とフットボール ザイニチ・サッカー・アイデンティティ』武田ランダムハウスジャパン、2010年、290頁。ISBN 978-4270005651。
- ^ “365日FC東京”. 2004年6月10日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年3月11日閲覧。 東京中日スポーツ
- ^ “呉 章銀選手が『Jリーグ最年少出場記録』達成!”. 2002年4月23日時点のオリジナルよりアーカイブ。2010年11月25日閲覧。 FC東京 (2002年4月13日)
- ^ “呉章銀選手(FC東京U-18)・来季新加入内定のお知らせ”. 2004年3月15日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年9月28日閲覧。 FC東京 (2003年12月2日)
- ^ a b c “呉章銀 来季はKリーグ「将来また日本に戻ってきたい」”. 2005年11月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年3月11日閲覧。 東京中日スポーツ (2004年12月22日)
- ^ “呉 章銀選手 大邱FC(韓国Kリーグ)へ移籍決定のお知らせ”. 2005年10月16日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年3月11日閲覧。 FC東京 (2005年3月7日)
- ^ a b [한국축구유망주 37]오장은, 생애 첫 해트트릭 기록한 대구의 살림꾼(朝鮮語) 大韓サッカー協会 (2006年9月23日)
- ^ a b FA최대어 오장은, “돈이 아닌 성장의 기회 택했다”(朝鮮語) 大韓サッカー協会 (2007年1月21日)
- ^ 울산, 오장은과 현영민 영입 성공!!(朝鮮語) 蔚山現代FC (2007年1月26日)
- ^ 대표팀, 미드필더 오장은 추가 발탁(朝鮮語) 大韓サッカー協会 (2010年2月5日)
- ^ [인터뷰]오장은,"어릴 때 인연 맺은 수원행은 운명"(朝鮮語) マネートゥデイ、2011.02.11
- ^ ‘멀티 플레이어’오장은, "전북 '닥공' 막을 수 있다"(朝鮮語) スポーツ朝鮮、2011.10.06
- ^ a b [숨은영웅]전반엔 섀도 후반엔 윙백…수원 오장은‘오! 짱’(朝鮮語) 東亜日報、2011.11.21
- ^ “최강희 감독님, 여기 숨은 인재 있어요”(朝鮮語) 京郷新聞 (2013年2月28日)
- ^ 곽희주 “후반 45분 남았어 우리 영화 한편 찍자”(朝鮮語) 東亜日報 (2013年4月16日)
- ^ 수원 주장 오장은, 슈퍼매치 12㎞‘무한 플레이’(朝鮮語) 京畿日報 (2013年4月17日)
- ^ 오장은, 수원 팬들이 뽑은 5월의 MVP 선정(朝鮮語)毎日経済新聞 (2013年6月4日)
- ^ 수원 이끌게 된 염기훈 "부드러운 주장 되겠다"(朝鮮語) スポーツ朝鮮 (2014年2月13日)
- ^ 암·희귀 질환 등 병마 딛고 더욱 강해진 체육인(朝鮮語) 聯合ニュース (2016年4月18日)
- ^ 추격자 수원, 조용히 선두 경쟁 준비 중(朝鮮語) デジタルタイムズ (2014年10月22日)
- ^ a b c <프로축구> 수원 오장은, 은퇴의 골짜기에서 '부활의 노래'(朝鮮語) 聯合ニュース (2016年4月18日)
- ^ 오장은, 수원삼성 떠난다(朝鮮語)韓国日報 (2016年1月14日)
- ^ 이정수, 오장은, 장호익 수원삼성 합류(朝鮮語)水原三星ブルーウィングス (2016年2月29日)
- ^ 성남FC, 베테랑 미드필더 '오짱' 오장은 영입(朝鮮語)城南FC (2017年1月1日)
- ^ a b “팔방미인 '오짱' 오장은 은퇴선언… "생일에 새 출발 결심했다"” (朝鮮語). news1 (2019年7月25日). 2024年4月28日閲覧。 “八方美人「オチャン」呉銀引退宣言… 「誕生日に新しい出発を決めた」(記事題名の日本語訳)”
- ^ スポーツコリア (2020年1月22日). “오장은, FC도쿄와 유소년팀 코치 계약...지도자로 새 출발” (朝鮮語). スターニュース. 2024年4月28日閲覧。 “「オジャンウン、FC東京と幼少年チームコーチ契約…指導者として新出発」(記事題名の日本語訳)”
- ^ スポーツコリア (2020年12月29日). “(단독) '오짱' 오장은, 수원 '박건하 사단' 합류...2군 코치 담당” (朝鮮語). 2024年4月28日閲覧。 “(単独) 'おちゃん' オジャンウン、水原 'パクゴンハ師団'合流...2軍コーチ担当(記事題名の日本語訳)”
- ^ a b 새 신랑 오장은 “서정원 감독 시대, 신혼 포기했다”(朝鮮語)ダウム (2012年12月20日)
- ^ a b 오장은 김두현 정성룡 등 '추캥'이 다시 한 번 뭉친다(朝鮮語)ネイバー (2012年12月4日)
- ^ a b 추캥’ 산파 오장은 “추캥이 또 다른 추캥을 낳고 있다”(朝鮮語)毎日経済新聞 (2013年12月5日)
- ^ 呉章銀 - National-Football-Teams.com
関連項目
外部リンク
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