呂宜文
呂 宜文(りょ ぎぶん/ろ ぎぶん)は、満州国の外交官・官僚・政治家、中華民国のジャーナリスト・軍人。 事績金州南金書院、大連工業学校を経て日本に留学し[3]、明治大学専門部政治経済科を卒業した[4]。帰国後は亜細亜製粉会社に入社し、続いて吉林省で山城鎮電燈公司経理となる。その後、旅順を拠点とする月刊紙『順律報』[5]の創刊に関わり、編集長を務めた。1920年代末に大連へ移り、『泰東日報』編集長の傅立魚から勧誘されて同紙編集者となる[1]。しかし、執筆した記事が原因で日本当局に弾圧され、呂は奉天へ逃れた[6]。 まもなく呂宜文は張学良配下となり、東北軍航空司令部教官として起用された。1931年(民国20年)に満洲事変が勃発すると、張学良とは不仲の従弟・張学成に呂は随従し、満洲国樹立工作に関わるようになった。日本語に精通していた呂は、日本や満洲の当局者の信頼を得るようになる[3]。 1932年(大同元年)3月に満洲国が建国されて以降、呂宜文は同国外交部において事務官や文書科長、通商司長を歴任した。同年、日本への答礼使節となった謝介石の随員として来日している。1935年(康徳2年)、国務総理鄭孝胥の秘書官となる。1937年(康徳4年)7月、通化省長に任命され、翌1938年(康徳5年)8月には駐独公使に転じた[1]。 駐独公使在任中の呂宜文は、ドイツ支配圏からの脱出を望むユダヤ難民へのビザ発給を行った(書記官王替夫が実務担当)。一時はドイツ当局の圧力が掛かったものの、秘密裏のビザ発給を1940年(康徳7年)5月まで呂は黙認し、最終的に1万2千人のユダヤ難民が脱出できたとされる[7]。 1945年(康徳12年)春、呂宜文はハノーファーに滞在していたが、進軍してきた連合国軍に逮捕されてしまう。まもなく米国当局の手配により、呂はベトナム経由で雲南省昆明市へと送還され、蔣介石の国民政府により収監された[3]。1946年(民国35年)5月11日、雲南省高等法院で死刑判決を受けている[8]。 しかし呂宜文は死刑を執行されず、軍統局長・毛人鳳の手配で異例の赦免を受け、軍統の一員として起用された[3]。中華人民共和国建国後も呂は雲南に留まり、反共武装勢力の一員として抗戦を継続している。1950年10月、雲南省思茅市における中国人民解放軍との戦闘で銃殺された。享年54[9]。 注
参考文献
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