吉野周太郎 (10代)
10代 吉野 周太郎(よしの しゅうたろう、1871年5月30日〈明治4年4月12日[1][2]〉 - 1937年〈昭和12年〉5月22日[1][3])は、明治から昭和初期の農業経営者、実業家、政治家。貴族院多額納税者議員。旧姓は伊藤、幼名は要三[1][2]。福島経済界の「巨人」と称された[1][4]。 経歴陸奥国白河郡、後の福島県西白河郡白河町(現白河市)で素封家・伊藤善右衛門の三男として生まれ[1][4]、1888年(明治21年)7月、信夫郡八島田村(信夫郡野田村、吾妻町を経て現:福島市八島田)の9代吉野周太郎の婿養子となる[1][4]。1911年(明治44年)8月、養父の死去に伴い家督を継承し、同年11月、10代周太郎を襲名した[2]。 養父の築いた多額の財産により、福島第六銀行頭取、第百七銀行頭取、福島銀行[注 1]頭取、武蔵野銀行頭取、岩代銀行頭取、福島電灯社長、夏井川水電取締役会長、福島羽二重取締役会長、福島県購買組合連合会理事長、同県信用組合連合会理事長などを務めた[1][2][3][4][5]。 1925年(大正14年)9月29日、貴族院多額納税者議員に任じられた[3][6]。昭和金融恐慌、世界恐慌により財産を失い[1][4]、貴族院議員を1928年(昭和3年)10月27日に辞職した[3][7]。手形濫発事件で同年11月2日、福島地方裁判所から懲役2年6月の実刑判決[8]。これにより従七位返上を命じられ[9]、勲六等及び大礼記念章を褫奪された[10]。 親族脚注注釈出典参考文献
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