吉水玄信吉水 玄信(よしみず げんしん、文政12年9月17日(1829年10月14日) - 明治20年(1887年)7月17日)は、幕末から明治時代の浄土宗の僧侶。 来歴・人物文政12年(1829年)9月17日、信濃国更級郡真島村(現・長野県長野市)に丸田久右衛門の長子として生まれ、俗名は信治。天保4年(1833年)8歳の時に善導寺にて出家し、名前を玄信と改めた。江戸伝通院、東叡山浄明院、増上寺で学ぶ。 安政5年(1858年)日新窟の寮主、文久2年(1862年)浄光窟へ転じ、明治5年(1872年)に学頭となる。明治5年(1872年)生美大巌寺の住職、明治8年(1875年)鎌倉光明寺の住職。明治15年(1882年)磐城国磐前郡山崎専称寺の住職を兼ねる。 明治20年(1887年)新宗制制定をめぐって東西五本山が紛糾し管長・法王が辞任する事態におよび、浄土宗管長事務取扱となり、新しい浄土宗制の確立に尽力する。同年5月増上寺住職72世となるが、7月17日死去。行年59歳。字(あざな)は光沢。号は香蓮社馨誉柔阿。著作に『記主禅師行状絵詞伝』など。 玄信の実弟・丸田定治の伝は『明治往生伝 初篇』に収められている。 著書参考文献脚注
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