吉川経倫
吉川 経倫(きっかわ つねとも)は、江戸時代中期の周防国岩国領7代領主。 生涯延享3年(1746年)5月13日、徳山藩5代藩主・毛利広豊の九男として江戸の今井谷邸で生まれる[1]。元服後は毛利豊房と名乗った。 岩国領6代当主・吉川経永の男子がいずれも夭折したため、宝暦8年(1758年)に経倫が岩国領の継嗣として迎えられる。宝暦12年(1762年)に幕府の許可を得て経永との養子縁組が行われ、明和元年(1764年)10月3日に経永が死去したため家督を継いだ。 経倫の治世は、先代までの領財政の窮乏が積み重なり、破綻寸前の危機的状況にあった。その上幕府の普請に借り出されたり、錦川では水害が発生したり、岩国の陣屋町では大火災が発生したりと苦難が相次いだ。 寛政4年(1792年)に長男の経忠に家督を譲って隠居し、翌寛政5年(1793年)には新築された隠居館の昌明館に移る。 系譜
脚注注釈出典
参考文献
|