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実業家、馬主の「吉岡實」とは別人です。 |
吉岡 実(よしおか みのる、1919年4月15日 - 1990年5月31日)は、昭和後期の日本の詩人・装丁家。
シュールレアリスム的な幻視の詩風で、戦後のモダニズム詩の代表的詩人である。全286篇の詩作品と190点近い装丁作品を遺した。別号、皚寧吉など。
生涯
1919年、東京市本所に生れる。「一度兵隊で外地へでた以外東京を離れたことがない」本所高等小学校を卒業後、本郷の医学出版社・南山堂に奉公。向島商業学校の夜間部に通うも中退する。
詩歌集『昏睡季節』(1940年)を刊行。
1941年の夏、召集令状を持った「郵便夫」がやって来て、吉岡は二日間のうちに二十一歳の詩集『液體』を整理編集し、原稿を小林梁、池田行之の二人に委ねた。その後、吉岡は「酷寒の満州」駐屯の若い一兵士として、「馬糞臭い兵隊の手に」(輜重兵として満洲を転戦、軍馬係であったので)、内地から送られて来た自分の詩集(『液體』、1941年12月10日刊行)を受け取った。
1956年2月下旬、偶然、飯島耕一に出会い、詩集『静物』(1955年8月刊行)を渡し、あまりにも反響がないので詩をやめようと思うと語ったが、飯島はそれはいけないと引き止めた。当時、飯島は二十代半ばで吉岡の十一歳年下だった。
1951年から筑摩書房に勤務、取締役も務め、1978年まで在籍した。
詩集『静物』(1955年)、詩集『紡錘形』(1962年)、詩集『静かな家』(1968年)、詩集『神秘的な時代の詩』(1974年)などを刊行した。
詩集『僧侶』(1958年)で第9回H氏賞、『サフラン摘み』(1976年)で第7回高見順賞、『薬玉』(1983年)で第22回藤村記念歴程賞を受賞した。
吉岡はいよいよ晩年に近い日に佐渡へ行った。1989年4月1日、新潟市美術館で西脇順三郎の回顧展のオープニングがあり、東京からも何人もの詩人が新潟市へ行き、多くの人は一泊して帰ったが、吉岡実は一人の編集者と佐渡へ渡った。
1990年5月31日、急性腎不全のため東京共済病院で死去。享年71。戒名は永康院徳相実道居士[1]。
妻の陽子は和田芳恵の娘。
主な著書
詩集
- 昏睡季節(草蝉舎、1940年)
- 液体(草蝉舎、1941年・湯川書房、1971年)
- 静物(私家版、1955年)
- 僧侶(書肆ユリイカ、1958年)
- 紡錘形(草蝉舎、1962年)
- 静かな家(思潮社、1968年)
- 異霊祭(書肆山田、1974年)
- 神秘的な時代の詩(湯川書房、1974年・書肆山田、1976年)
- サフラン摘み(青土社、1976年)
- 夏の宴(青土社、1979年)
- ポール・クレーの食卓(書肆山田、1980年)
- 薬玉(書肆山田、1983年)
- ムーンドロップ(書肆山田、1988年)
- 赤鴉(弧木洞、2002年)
歌集
- 魚藍(私家版、1959年・深夜叢書社、1973年)
句集
選詩集
- 吉岡實詩集(書肆ユリイカ・今日の詩人双書5、1959年)
- 吉岡実詩集(思潮社、1967年)
- 吉岡実詩集(思潮社・現代詩文庫14、1968年)
- 吉岡実詩集〔普及版〕(思潮社、1970年)
- 新選吉岡実詩集(思潮社・新選現代詩文庫110、1978年)
- 吉岡実(中央公論社・現代の詩人1、1984年)
- 続・吉岡実詩集(思潮社・現代詩文庫129、1995年)
散文・日記
- 「死児」という絵(思潮社、1980年)
- 土方巽頌 - 「日記」と「引用」に依る(筑摩書房、1987年)
- 「死児」という絵〔増補版〕(筑摩書房・筑摩叢書328、1988年)
- うまやはし日記(書肆山田・りぶるどるしおる1、1990年)
- 吉岡実散文抄(思潮社・詩の森文庫E06、2006年)
全詩集
参考文献
- 飯島耕一「吉岡実の死」(「朝日新聞」1990年6月4日)
- 飯島耕一「青海波――あるいは吉岡実をめぐる走り書」(「現代詩読本」1991年4月、思潮社)
脚注
- ^ 岩井寛『作家の臨終・墓碑事典』(東京堂出版、1997年)356頁
外部リンク