吉利忠澄
吉利 忠澄(よしとし ただずみ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。島津氏の家臣。 生涯吉利氏の祖は島津国久の三男・秀久(忠澄の曽祖父)。祖父の忠将、父の久定以降、吉利を領していたために主君・島津貴久の命で領地名を名字とした。 弘治3年(1557年)、9歳のときに父・久定が死去する。忠澄がまだ若年であったため、貴久は忠澄の叔父・吉利久金に遺領を継がせようとしたが、家臣ら36人が連判して忠澄への相続を求め、受け入れられない場合は切腹する旨を訴え出たために、貴久は忠澄への相続を認めた。また忠澄はこの年に初陣、功を上げ感状と甲冑を賜っている。貴久死後は島津義久の下、大隅国の伊地知氏と禰寝氏攻略で功を上げ、日向国攻略にも尽力し天正6年(1578年)に日向門川灘地頭となった。 その後も水俣城攻めや沖田畷の戦い、島津家久に従い戸次川の戦いなどにも出陣し数々の大功を上げ、根白坂の戦いでも奮戦し軍功を上げたものの、敗れて元の領地である吉利へ戻った。文禄3年(1594年)に日向内山地頭となったが、その翌年に病死した。 系譜参考文献
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