古市城
古市城(ふるいちじょう)は、奈良県奈良市古市町にあった中世の日本の城(平山城)。 概要奈良市古市町に位置し、城跡は奈良市立東市小学校の校地となっている。当初は約150×200mの広い台地にあって堀を巡らせ、後に谷を隔てた南方の狭い丘陵も城地とされた。台地と西側の環濠集落が結合して惣構えを形成していた。最大時には5町四方で、南北西三方に各門があり、その大手を延命寺口といった。主要建物の屋根は板葺で、それ以外は茅葺等であった。主要建物の壁は白壁で、それ以外は土壁等であった。 歴史当城を拠点とした古市氏は、1320年代より史料に登場し、室町時代には興福寺大乗院の坊人として有力な存在となった。 古市胤仙は文安元年(1444年)の興福寺を二分する争乱では、経覚に従って当城から筒井氏と対峙し、筒井氏に代わり衆徒の棟梁となるとともに、庶家の反抗を抑えた。文安4年(1447年)には奈良を追われた経覚を半ば強引に古市に移し、続く古市胤栄は応仁の乱に関わるとともに一族・家臣の統制を強化して権威の回復に務めた。古市澄胤の代に全盛を迎えると城内に堀や馬屋、風呂などを設け、連歌や茶の湯が催された。 明応6年(1497年)に筒井勢に敗れて落城し、城は破却された。同8年(1499年)に細川政元の支援で澄胤が復帰して翌年に城を再建したが、永正元年(1504年)に再び落城した。翌年さらに再々建され、同5年(1508年)に澄胤が敗死すると後継の公胤は城域の中心を南に移している。天文12年(1543年)に筒井順興に敗れた際、城は古市氏によって焼かれ(『明応六年記』)、さらに城跡の竹木が切り払われた(『大乗院日記目録』)[1]。 古市氏の末裔
脚注
参考文献
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