原田次郎
原田 次郎(はらだ じろう、1894年(明治27年)11月10日[1] - 1989年(平成元年)12月20日[1])は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。功四級[2]。 経歴・人物佐賀県出身[1][2]。1915年(大正4年)5月、陸軍士官学校第27期卒業、同年12月に陸軍歩兵少尉に任官[1][3]。1926年(大正15年)陸軍大学校第38期卒業[1][2]。 1936年(昭和11年)8月に第2師団参謀を経て、1938年(昭和13年)3月に陸軍歩兵大佐に進み、同年7月に第2師団参謀長に発令される[2]。ついで、1940年(昭和15年)12月に陸軍士官学校教授部長に転じ、1941年(昭和16年)3月に陸軍少将に進む[1][2]。 大東亜戦争に入ると、同年8月に第17歩兵団長(支那派遣軍、第13軍、第17師団)に任ぜられ、1942年(昭和17年)11月に保定幹部候補生隊長、1944年(昭和19年)1月に独立混成第30旅団長(南方軍、第14軍)を経て、同年6月に陸軍中将・第100師団長(第14方面軍、第35軍)に親補され、ミンダナオ島で米上陸軍相手に第32特別根拠地隊などの海軍部隊も統一指揮して抵抗を続けた[1][2]。 1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[4]。 栄典
脚注参考文献
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