原澄治
原 澄治(はら すみじ、1878年7月23日 - 1968年1月4日)は、岡山県児島郡藤戸村(現在の倉敷市藤戸町)出身の実業家、地方政治家。旧姓は星島[1]。号は彰邦[2]。倉敷市名誉市民[3]。 来歴実業家として、倉敷紡績(クラボウ)専務、中国民報社(現在の山陽新聞社)役員を務め、大原孫三郎の右腕として実業界で活躍した。 1945年(昭和20年)に辞任するまで系列の奨農土地会長、倉敷絹織(現在のクラレ)取締役、中国信託社長、岡山合同貯蓄銀行頭取、中国銀行取締役などを兼任した[1]。 また1912年(明治45年)から郡議、町議を務め、1918年(大正7年)から1924年(大正13年)までは倉敷町長も歴任した[1]。 1913年(大正12年)に蔵書を寄贈し倉敷旭町小学校(後の倉敷東小学校)内に倉敷図書館を設立[4]。 1926年(大正15年)、日本初の民間天文台、倉敷天文台を私財を投じて設立した。イギリスから輸入した中古の32cm反射望遠鏡(市指定重要文化財)が設置されたが、これは当時、国内最大級だった。また、日本の既設の天文台はすべて官営であり、限られた研究者しか使えなかったが、倉敷天文台は利用者の所属を問わない、いわば公開天文台であった。 倉敷天文台では、アマチュア天文家の本田実が活躍し、彗星をはじめとした多くの天体を発見した。 小惑星の8548 Sumiziharaは原に因んで名付けられた。 脚注
関連項目
外部リンク |