原口聞一原口 聞一(はらぐち ぶんいち、1873年9月23日 - 1935年6月12日)は、おもに清末から満州国の時代の中国東北部で活動した、日本の実業家[1][2]。初期の「満州浪人」(大陸浪人)の代表的人物とされた[3]。 経歴東京帝国大学に学ぶが、在学中から東亜同文会の設立などに関わり[2]、1899年に大学を中退し、清末の中国へ渡った[1]。 その後は、中国東北部における日系の様々な事業に関わり、1900年に日華合弁清和社長となったのをはじめ[1]、数社の重役に名を連ねた[2]。 1905年に大連で創刊された『満洲日日新聞』[4]に立ち上げ段階から関わり、1909年に奉天支局長となった[1][2]。 1911年の辛亥革命に際して、革命党を援助したとして退去を強いられ帰国したが、1913年に再び大陸へ渡り、1914年には奉天居留民会長となった[1]。他にも、奉天取引所副会頭、奉天商工会議所副会頭や、満州土地建物、満州殖産銀行などの重役を歴任した[1]。 1923年には、奉天在住のまま、衆議院長崎県第3選挙区補選に立憲政友会から出馬したが[5]、当選は果たせなかった[6]。1924年の第15回衆議院議員総選挙でも当選はしなかった。 脚注
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