南条宜政
南条 宜政(なんじょう よしまさ[1])は、江戸時代初期の武将。伯耆の国人南条氏の一族で、南条(小鴨)元清の子。 生涯伯耆の国人南条氏の一族で、熊本の加藤清正に6000石で仕えた南条元清(小鴨元清、南条元宅)の子。『寛政重修諸家譜』によれば元清の二男で、兄の「勘十郎」が病身のため肥後で閑居したことから、二男の宜政が家を継いだとある[1][注釈 1]。 宜政は豊臣秀頼に仕え、慶長19年(1614年)からの大坂の陣では豊臣方に属して大坂城に籠城した[1]。慶長20年(1615年)に豊臣方が敗北すると宜政も自害しようとしたが、徳川方の水野勝成隊が宜政の妻子を救い出して連れ去ったために、自らも城を脱して水野家に保護されたという[1]。これは宜政の妻(水野忠胤の娘)が勝成の姪であった関係による[1]。 その後は肥後熊本藩加藤家に仕えたが[注釈 2]、寛永9年(1632年)に加藤忠広が改易されると、美作津山藩主森長継に仕えた[1]。 家族『寛政重修諸家譜』には四男一女を載せる。 長男の宗晴(次郎右衛門)は、父を継いで津山藩主森長継に仕えた[1]。その孫の南条宗清が幕府に出仕して御家人となっている[1]。 二男の貞政(伝兵衛、弥惣右衛門、空菴)は水野忠職(水野勝成・忠胤の甥)に仕えたが、のちに浪人となった[1]。 娘は土井大炊頭(土井利勝)家臣・土井内蔵允[注釈 3]の妻となった[1]。 三男の宗俊(源八、与兵衛)は、母(水野氏)が千姫に仕えていた縁から徳川家に召し出され、徳川綱重(甲府徳川家・甲府藩)付きの家臣となり、書院番頭まで上った[1]。宗俊の長男[注釈 4]の宗益が家を継ぎ、徳川家宣が将軍後継者として江戸城西の丸に入ると、西の丸小納戸を務めた[1]。南条家は以後600石の旗本として続いた[1]。 四男の春仁は僧になった[1]。 脚注注釈
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