南山の戦い(なんざんのたたかい、ナンシャンのたたかい)は、遼東半島・金州城の南近郊の南山と呼ばれる所で1904年に行われた、ロシア陸軍と日本陸海軍の戦い。ロシア軍は機関銃などを装備し、南山はある程度要塞化されていたため、半ば塹壕戦、攻城戦となった。日本陸軍第二軍は敵に倍する兵士を擁していたにもかかわらず総兵力の10%を超える兵員を失ってしまった。
鴨緑江会戦の後、第二軍は遼東半島に兵を進めた。ロシア陸軍は遼東半島の隘路となっている南山に野戦砲114門と機関銃を据え付け、塹壕と鉄条網、地雷を備えた近代的陣地を構築した。日本陸軍がこのような近代的な陣地に攻撃をしかけるのはこれが初めてであったが、中国人から得た情報により、要塞の構造は把握していた。
第四師団による攻撃が金州城に対して開始されたが、失敗に終る。 第一師団からの増援2個大隊を加えた三回目の攻撃によって金州の攻略が完了した。その後南山に対して攻撃が加えられた。金州湾からの海軍の艦砲射撃が攻撃を援護したものの、凄まじい損害を受けた。しかしながら粘り強い日本の攻撃により砲弾の尽きたロシア軍は撤退を開始。第二軍は南山を占領して一応の勝利を収めた。
第二軍はその後弾薬の補給を受けて満州へ向かった。撤退したロシア軍は若干の抵抗をしながらも旅順へ撤退し、背水の陣で第三軍と対峙することとなった。第三軍の司令官乃木希典も、第二軍に所属していた長男・勝典をこの戦いで失っている。
現在の南山
南山の山頂部は1993年、「南山日俄戦争遺址」として大連市級文物保護単位に指定され、「南山戦蹟碑」址や「金州城外斜陽に立つ」詩碑址が残っている。
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