南京 (戦線後方記録映画)
『南京』(なんきん)は、1938年2月20日、東宝映画により公開された映画である。制作中に陸軍省、海軍省の後援を得たものであり、企画意図からして,必ずしも自覚的に国家宣伝=プロパガンダが目ざされていたわけではなかったが、実際には戦争の苛酷な現実が国家宣伝=プロパガンダへの道を開いていったという説がある[1]。日中戦争における南京戦終了直後の南京城内外の様子を撮影している。 映画の来歴この映画は日中戦争三部作の1つとして製作され、1937年(昭和12年)8月13日の第二次上海事変の勃発と同時に、『上海』『南京』『北京』と撮影され、制作中に陸軍省と海軍省の後援を受け[1]1938年(昭和13年)に劇場公開された。
撮影を行った東宝映画文化部は、1937年(昭和12年)9月にPCL、写真科学研究所、東宝配給、J・Oの4社が合併して東宝映画株式会社内に出来た第二制作部である。 この映画は、遠からず行われると予測された南京攻略戦に備え、『上海』と同時に準備の進められた企画である。撮影班一行は、『上海』の撮影が終わるのを待ってその機材を引き継ぎ、1937年(昭和12年)12月12日未明に南京へ向けて出立。南京陥落の翌日14日に南京に到着し、そのまま年を越えて1月4日まで撮影を続けた[2][3]。 日本で保存してあったフィルムは1945年(昭和20年)3月10日の東京大空襲時に消失。1995年(平成7年)、北京に8巻のフィルムのうち7巻が存在することがわかり、仲介業者を通じ中国の軍関係者から日本映画新社が買い取った。その時点で10分前後の欠落が確認されている。1995年に日本映画新社からVHSが販売され、2003年(平成15年)にDVDが発売されたが、後に日本映画新社が東宝ステラに合併されたため絶版となった。 2014年(平成26年)、日中問題研究家の松尾一郎が残りの約10分間の映像を発見した[4]。現在、松尾が完全版を作成しYouTubeにて公開を行っている[5]。 映画のスタッフ
映画の内容
映画の字幕映画の字幕には、次の言葉が残されていた。
映画撮影の様子この映画の撮影の様子については、製作事務の米沢秋吉が記した撮影日誌と、撮影した白井茂の回顧録に述べられている。 米沢秋吉の撮影日誌南京陥落の1937年12月13日以降の日誌には、映画撮影班の次の内容が記されている。このうち、12月17日に撮影された入城式の場面は、はじめから天覧に供することが決まっていた[12]
当時の南京には日本の新聞記者やカメラマンが約120人も占領と同時に入城して取材にあたっていた。その中でこの映画の撮影班は軍特務部撮影班であったため、新聞社ニュース班の撮れないところでも自由な撮影が許される、ということも記されている[注釈 8] 白井茂の回顧録撮影の白井茂は回顧録で、見たもの全部を撮ったわけではなく、撮ったなかにも切られたものがあると述べている[20]。 南京に到着した12月14日から銃殺のため処刑地の揚子江河畔に連行される長蛇の列を目撃したがカメラは廻せず、その目撃に憔悴し幾晩も悪夢にうなされたと述べている[21][22]。 また、日本軍の入城式の場でも住民が「しょうがない」と歓迎の手旗をふったことがあったとも証言している[23]。 映画を巡る評論この映画は、映画作品としてさまざまな評論がされている。また、南京事件の実態をあらわす史料として、南京事件論争における南京虐殺否定派と南京大虐殺肯定派の双方の立場から論じられている。キネマ旬報社データベースでは「半世紀以上の時を経た数々の歴史的映像を収録し、戦前・戦中の記録を伝えるドキュメンタリーシリーズ第4弾。昭和12年12月の南京入城後の日本軍と荒廃した市内のリアルな映像を収録。今なおその存在の有無が争われている“南京大虐殺”を巡る話題作。」と紹介している[24]。 映画作品としての評論ドキュメンタリー映画監督の野田真吉は、南京陥落直後の南京の状況はさまざまに撮影されていたが、南京大虐殺に関する撮影はすべて禁止されていたので、この映画はよく見かけた戦勝ニュースの域を出なかったと批評している。兵の姿もいつものにこやかな後方陣地風景で、沈黙を強いられている中国民衆の不気味さも感じられない、南京の冬の日だまり報告という感じだったと述べている[25]。 ドキュメンタリー映画監督の土本典昭は、白井茂の回顧録を引用した上で、現場の撮影と演出を兼ねた白井にとって本作は戦争の過酷さに圧倒され手も足も出ない現場だったようだが、撮影禁止にされたにせよ大虐殺の目撃体験から、以後の南京の描写にカメラによる悲劇の発見の眼がよみがえるべきだったとしている。さらに、野田真吉の批評を引用しつつ、だがこれは白井一人の責任ではなく当時の東宝文化映画部のとった構成編集の分業というシステムの結果でもあり、当時の慣例通り現地には赴かなかった構成編集者秋元憲はこの体験から演出家の現場主義の考え方をより強めたと指摘している[26]。 ドキュメンタリー映画監督の佐藤真は、前記白井の記述・野田の批評を引用しつつ、南京大虐殺の事実を目撃しながらカメラを回せなかった白井の苦闘が、編集・構成をする際の苦闘にまったくつながらなかったことで本作は凡百の国策映画の一本となった。編集・構成の秋元を『上海』の亀井文夫と比較するのは酷かもしれないとする一方で、白井は本作の失敗を心の傷として胸にしまっておいたきらいがあり、後の亀井監督『小林一茶』でその本領をいかんなく発揮したとしている[27]。 映画学者の藤井仁子は、この映画の最大の特色は様式的な混乱とも映る矛盾に満ちた不均質性にこそあると指摘している。いくらこの映画を見続けても都市としての南京の映像は明瞭さを欠いており、都市の日常が徹底的に欠けている。日本兵はただ次から次へと式典を行い、中国人は「安居の証」を求めて集まる場面を除いてその姿は極端に少なく、日本兵の居所を一歩離れれば映し出されるのは無人の廃墟ばかりだ。それはこの映画の撮影班が見たものが到底撮ることのできないような現実だったからであり、この映画の持つ不均質な様式的混乱は、その現実を見ずに済ませるための悪戦苦闘のドキュメントなのだと述べている[28]。 南京大虐殺否定派の評論1998年12月13日の産経新聞は、鬼よりも怖いはずの「南京憲兵分隊」の前を平気で歩いている住民や、日本軍の兵士が通っても素知らぬ顔で正月を祝って爆竹に興じる子供たち、そして特に「鑑札を持っておれば日本軍の保護を受けることができる」という「急告」を見て、何千人もの中国人が鑑札を求めて殺到している場面に注目し、もしも南京市内で6週間の間に20万や30万もの中国人を日本軍が虐殺していたら、このような現象は有り得ないという映画評論を載せた[29]。 日本文化チャンネル桜代表取締役社長などを務め映画監督でもある水島総は、広い光景を撮った場面が多い映画であり、撮られて都合の悪いものがあればカメラマンは狭い絵のワンショットにするし、住民の恐怖感を持っていない顔が映像で確認でき、住民が整然と並んでいることも日本軍に対する恐怖がないことを示していると述べている[30]。 南京大虐殺肯定派の評論歴史学者の笠原十九司は、日本陸軍検閲要領の「映画は本要領に準じ検閲する」を考えれば日本の映画カメラマンが虐殺現場を撮影する可能性はゼロに近く[注釈 9]、この映画は日本軍に不利な場面の撮影は当然避けられているとした。その上で、それでも南京占領直後の南京城内の掠奪・破壊・放火された街の様子や疲弊し無気力な表情の難民など隠しようのない南京事件の舞台跡が撮影されているとし、見る者が見れば南京事件を物語る映像記録のひとつになっていると述べた[32]。 脚注注釈
出典
関連項目
外部リンク |