千本日活
千本日活(せんぼんにっかつ)は、日本の映画館[2][3][4][5][6][7][8][9][10]。第二次世界大戦後の1961年(昭和36年)7月、京都府京都市上京区に独立館主による東宝封切館、五番街東宝(ごばんがいとうほう)として新築・開館[11][12][13]、1963年(昭和38年)には改称した[3]。戦前から芝居小屋・映画館でにぎわった西陣地区に現在も残る、同地区最後の映画館である[3][10]。 1901年(明治34年)に牧野省三が新築・開館した千本座(のちの千本日活館)とは、経営・歴史・場所のすべてが異なるものである[2][3][10][14]。 データ
歴史年表沿革第二次世界大戦後の1961年(昭和36年)7月15日[1]、京都市電千本線・堀川線の交差する千本中立売電停(現在の京都市営バス千本中立売停留所)の南西に位置する、京都府京都市上京区上長者町千本西入ル五番町172番地に五番街東宝として新築・開館した[11]。同館は、1963年(昭和38年)に田坂具隆が監督して映画化した水上勉の小説『五番町夕霧楼』(1962年)の舞台になったかつての「五番町遊廓」(西陣新地とも)に位置し、同敷地は、同町の花街組合の事務所の跡地である[1][3]。1958年(昭和33年)3月15日に施行された売春防止法のために遊郭は廃止され、同組合も解散、同地に西陣新地土地建物株式会社が鉄筋コンクリート造三階建の映画館を建設、経営に乗り出したものである[11]。東宝と封切館契約をし、東宝が配給する新作を公開する映画館であった[11]。冷暖房完備、観客定員数600名、開館時の支配人は大島弘である[11]。同社の本社は、同館内に置いた[13]。 同館は西陣地区では最後発の映画館で、当時の同地区には、日活直営の千本日活館(かつての千本座、千本通一条上ル)、西陣松竹(千本通下長者町上ル)、西陣キネマ(千本通中立売上ル)、東映直営の西陣ニュー東映劇場(西陣東映劇場、千本通中立売上ル)、西陣大映国際劇場(のちの西陣大映、千本通中立売上ル)、北野東映(千本通中立売下ル)、西陣劇場(下立売通浄福寺上ル)、大宮東宝映画劇場(大宮寺ノ内上ル)、千船映画劇場(千本通芦山寺上ル)、文化会館(寺町通丸太町上ル)の10館がすでに存在していた[12]。 1963年(昭和38年)6月、日活が当時の一連の資産売却の方針により、直営館であった千本日活館を閉館、翌年には田中不動産に売却している[15]。同年、五番街東宝は館名を千本日活に変更、経営元を「千本日活」と変更し、支配人も吉田忠雄に代った[4]。同館は当時、開館以来3年目の新しい映画館であったが、西陣地域の映画市場はすでに縮小方向にあり、同年当時の同地域には、同館のほかは西陣松竹、西陣キネマ、西陣東映、西陣大映、千船映画劇場、文化会館の6館になっていた[4]。1968年(昭和43年)前後には、同館の経営は宮崎興行株式会社に移り、同社代表の宮崎三郎が支配人を兼務した[5]。同社は、現在に至るまで、同館を経営することになる[5][10]。 1971年(昭和46年)8月、日活が映画製作を中断、同年11月から「日活ロマンポルノ」の製作・配給を開始、同館は成人映画館に切り替わる[6][16]。このころの西陣地区の映画館は、すでに西陣キネマ、西陣大映、西陣松竹から館名を戻した西陣昭和館、同館を含めて4館のみ、大手資本による直営館は撤退し、すべて地元の館主による経営のもののみに減少していた[6]。1988年(昭和63年)には、にっかつ(日活)がロマンポルノから撤退したが、このころにはにっかつ系は西陣大映が上映しており、同館は、すでに他社系の成人映画の混映館になっていた[7]。西陣キネマが1984年(昭和59年)に閉館し、同地区の映画館は、同館と西陣大映のみであった[7]。 西陣大映は、1992年(平成4年)に東梅田日活が経営権を得て「シネ・フレンズ西陣」と改称したが[8][9]、2005年(平成17年)5月31日に閉館したため、以降、同地区の映画館は同館のみになった。現在は、新東宝映画、大蔵映画(オーピー映画)、新日本映像(エクセスポルノ)を3本立てで上映し、入場料は1階席500円、2階席600円である[10]。現在の経営はひきつづき宮崎興行、同社代表は宮崎栄嗣、同館支配人は辰巳友啓である[10]。 脚注
参考文献
関連項目外部リンク
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