千宗室 (4代)千仙叟宗室(せんのせんそうそうしつ)、または四代目千宗室(1622年~1697年[1])は、茶道流派裏千家の四代目当主。初めて裏千家流当主の世襲名「宗室」を名乗った。 生涯若年期は、京都の医師・野間玄琢に師事していた。しかし、野間の死去により父のもとに戻り、千家を継ぐことに専念する。 父・宗旦の尽力と人脈により、慶安5年(1652年)、加賀藩主前田家に仕官した[2]。当初は加賀藩2代藩主・前田利常に仕え、万治元年(1658年)に利常と宗旦が相次いで没すると、裏千家4代を襲名し、4代藩主・前田綱紀の茶頭として仕官し、百五十石と金沢城下の味噌蔵町の屋敷を与えられた。生涯の多くを金沢で過ごし、長男常叟宗室(五代目千宗室)を生した。仙叟宗室は元禄元年(1688年)、66 歳で京都に戻ったが、引き続き金沢への訪問を続け、元禄10年(1697年)1月23日、同地で死去した。享年75歳。[3] 功績金沢へ出仕の折、京都の楽焼の工房で働く陶工、長左衛門を同行し、河北郡大樋村(現:金沢市大樋町)に窯を築くのを手伝った[1]ことで知られている。これが楽焼の分派である大樋焼の誕生となった。 また、能登国出身の鋳物師、初代宮崎寒雉の金沢での釜造りを補助したことでも知られている。 脚注
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