千宗室 (11代)11代千 宗室(せん そうしつ、1810年(文化7年) - 1877年(明治10年)7月11日[1])は、日本の茶人で裏千家11代家元。号は精中、玄々斎。 人物1810年(文化7年)三河国奥殿藩4代藩主(大給)松平乗友の五男として生まれる[1]。1819年(文政2年)に10代柏叟宗室(認得斎)の養子となった[1][注釈 1]。1826年(文政9年)に認得斎が没し、その長女萬地と結婚して11代家元となる[1]。 萬地は1845年(弘化2年)に亡くなり、認得斎次女の照を後妻とする[1]。萬地との間に長男(夭逝)、照との間に次男千代松(一如斎、1846年 - 1862年)、長女猶鹿子(1850年 - 1916年)が生まれた[1]。一如斎は後継と目されていたが1862年(文久2年)に没したため、翌1863年に兄渡辺規綱の末子である正綱[2]を養子(宗淳、徹玄斎)とするも後に離縁となる[1]。明治維新を経た1871年に京角倉家・角倉玄祐の子を婿養子とし、12代家元(又玅斎)とする[1]。その後も隠居ながら精力的に活動し、1877年(明治10年)7月11日に没した。 業績1840年(天保11年)の利休250年忌に際し、今日庵の建物の増築を重ね、現在重要文化財となっているものは多くがこの時のもの[1]。同年、江戸に招かれ尾張藩主徳川斉荘に茶道伝授を行っている[1][注釈 2]。1849年(嘉永2年)に今日庵の表門である兜門を建て、また尊超入道親王を迎えて献茶するにあたり逆勝手大炉を切った[1]。1860年(万延元年)に点茶盤による立礼点前を考案する[1]。1865年(慶応元年)には禁裏献茶を行い、その時に残った茶を入れた中次(献残中次)を用い古袱紗を下敷きにする和巾点を復興披露した[1]。 著作注釈参考文献 |