十文字こと
十文字 こと(じゅうもんじ こと、天保暦 明治3年11月10日 / グレゴリオ暦 1870年12月31日 - 1955年5月17日[1])は、日本の教育者である。十文字学園の設立者である[1]。旧姓は高畑[1]。 人物・来歴明治3年11月10日(グレゴリオ暦 1870年12月31日)、京都府に高畑清治郞の長女「高畑こと」として生まれる[1]。幼少期のことは病弱で、小学校に入学したのは8歳の時であった。目が不自由な母に代わって家事や農作業の手伝いをするほかに勉学に励み、「学ぶ喜び」を知った。ことはこうした経験から教育の大切さを痛感し、「近所に小学校をつくりたい」「私が先生になって教えよう」という思いが芽生えた。当時10代であったことの思い描いた夢が十文字学園建学の始まりとなった。 東京に移り、1893年に女子高等師範学校(現在のお茶の水女子大学)を卒業。1894年に鹿児島県尋常師範学校助教諭を務める[2]。1897年-1899年京都府尋常師範学校女子部(現在の京都教育大学)の助教諭・舎監になる[1][3]。神田須田町に十文字商会を経営する十文字大元と結婚する[1][4]。1902年-1906年東京市本郷区龍岡町(現在の東京都文京区湯島4丁目)の私立日本女学校(相模女子大学)教員を務める[1][5][6]。夫の大元は1904年に金門商会を創立し、国産初のガスメーター製造販売を始める[7]。 1922年(大正11年)、戸野みちゑ、斯波安とともに、東京府北豊島郡巣鴨町に文華高等女学校を創立する[1][8][9]。夫が全国規模で普及活動を行っていた「自彊術」による体操を同校の日課に取り入れる[1][8]。1924年(大正13年)12月21日、金門商会を創設した夫・大元と死別する[10]。金門商会(1948年に金門製作所に改名)は息子の俊夫が継ぎ、折からの軍需インフレで繁栄する[11]。 1935年(昭和10年)、文華高等女学校長に就任[1][8]、1937年(昭和12年)、十文字高等女学校と改称した[1][8]。同校女学生の中に、金門商会の金属工場で放課後働いている者がいることが新聞報道され、「仕事をするということは自分をつくり上げること」と答える[11]。 第二次世界大戦終結後の1951年(昭和26年)、財団法人十文字高等女学校を学校法人十文字学園(現行)に組織変更した[1][8]。同年、藍綬褒章を受章する[8]。同年、理事長に就任した[8]。 1955年(昭和30年)5月17日、死去した[1]。満84歳没。子息の十文字俊夫の妻十文字良子が跡を継ぎ、同学園の理事長に就任した[8]。 大卒で20代後半で結婚[12]、教員として全国転勤していたことのライフスタイルは「明治に生まれながら、今の時代に通じる『超現代女性』」と表される[13]。 親族
ビブリオグラフィ
註
関連項目外部リンク
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