北畠具親北畠 具親(きたばたけ ともちか、生年未詳[1] - 天正14年6月9日(1586年7月25日))は、戦国時代の武将。北畠具教の実弟である[1]。宮内少輔[1]。 生涯伊勢国司の北畠家第7代当主・北畠晴具の三男として生まれた[1]。長兄に具教がいたため、はじめ僧侶となって奈良興福寺東門院院主の地位にあった[1]。 天正4年(1576年)11月、三瀬の変で兄が織田信長・信雄父子によって殺害されると、伊賀に潜入し[1]、還俗して伊勢に戻り、伊勢南部の北畠家の旧臣をかき集めた。 天正5年(1577年)、三瀬谷・河俣谷・多気・小倭衆らの在地武士と飯高郡森城で挙兵に及んだが、織田信雄によって鎮圧・落城した[1]。このため、安芸の毛利輝元を頼って、備後鞆に落ち延びた[1]。そして、滞在していた足利義昭に仕え、幕府衆となる。 天正10年(1582年)6月、信長が本能寺の変で死去すると、具親は伊勢に戻り、安保直親らと共に伊勢五箇篠山城で再挙した。しかし、津川義冬率いる織田信雄軍に再び敗れ、伊賀に落ちたという。 天正12年(1584年)、蒲生氏郷が伊勢に入封すると、具親は蒲生氏のもとに客臣として迎えられるが、天正14年(1586年)6月9日に病没している。 脚注参考文献
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