北条教時
北条 教時(ほうじょう のりとき)は、鎌倉時代中期の武将。北条氏の一門。名越流・北条朝時の子。母は北条時房の娘。名越 教時(なごえ のりとき)とも。 生涯康元元年(1256年)から文永2年(1265年)まで引付衆、文永2年(1265年)から文永9年(1272年)まで評定衆を務めた。 北条得宗家への反抗の意志が強く、文永3年(1266年)6月、将軍宗尊親王の京都送還の際、北条時宗の制止を無視して軍兵数十騎を率いて示威行動に出ている。 文永9年(1272年)、8代執権となった時宗の討伐軍によって兄時章ともども討ち取られた(二月騒動)。享年38。系図によれば、このとき息子の宗教、宗氏も共に討たれている。だが間もなく時章に異心はなく誤殺であったとされ、討手である御内人は責任を問われて斬首、教時への討手には罰も賞もなく、人々の笑いものになったという。 経歴※日付=旧暦
脚注
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