北川冬彦
北川 冬彦(きたがわ ふゆひこ、1900年〈明治33年〉6月3日 - 1990年〈平成2年〉4月12日[1])は、日本の詩人、映画評論家。『悪夢』(1947年)などの小説作品もある[2]。本名は田畔 忠彦(たぐろ ただひこ)[1]。 第1詩集『三半規管喪失』(1925年)を自費出版、詩誌「詩と詩論」を創刊し、新散文詩運動を展開した。戦後は新現実主義を提唱し、現代詩の可能性を追究した。作品に詩集『戦争』(1929年)など。 人物・来歴滋賀県大津に生まれながら、父親の仕事関係で満州で育ち[3]、軍国主義の旅順中学で5年間寄宿舎生活を送った[4]。 1919年(大正8年)に第三高等学校(現・京都大学 総合人間学部)文科丙類(フランス語必修)に入学。柔道をしていた北川は、1921年(大正10年)秋頃、新京極の「江戸カフェ」にたむろする同志社大学の猛者を追っ払い、それを見ていて感激した梶井基次郎(三高理科甲類)と言葉を交わす[4][5]。 1922年(大正11年)に三高を卒業し、東京帝国大学法学部フランス法に入学[6]。詩の創作を始めた北川は、1924年(大正13年)11月、安西冬衛らと詩誌『亜』を創刊。現代詩、特に新散文詩を発表。1925年(大正14年)1月に詩集『三半規管喪失』を出版し、横光利一から激励の手紙を送られ高評価された[3][6]。 1925年(大正14年)3月に仏法を修了した後、改めて文学を勉強するため4月から文学部仏文科に再入学[7]。帝大文芸部の『朱門』の同人となり、池谷信三郎、阿部知二、古澤安二郎、久板栄二郎、舟橋聖一と知り合った[8][9]。 同年、三高で顔見知りだった梶井基次郎らの同人誌『青空』に掲載された梶井の「檸檬」に感銘を受ける[6]。共通の友人宅で梶井と再会し、同人参加の誘いを受け、その後1926年(大正15年)12月の第22号から同人となった北川は[6][8]、第24号に発表した「軍港を内臓してゐる」(初出では「内蔵」だった)という一行詩「馬」を梶井から激賞された[10]。 1928年(昭和3年)、春山行夫、西脇順三郎、北園克衛らと詩雑誌『詩と詩論』創刊に参加し、1929年(昭和4年)10月刊行の詩集『戦争』で脚光を浴びた[1]。梶井基次郎はこの詩集の書評を『文學』11月号に寄せた[11][12]。 北川は詩を発表しながら、飯島正の誘いもあって映画評論を書き続けた[4]。伊藤大輔が代表する「韻文映画」に対して、「散文映画」を提唱し、その旗手として伊丹万作を高く評価した。シナリオ文学の独自性をも標榜した。北川が中心となって「シナリオ研究十人会」が結成され、機関誌として『シナリオ研究』が刊行され、萩原朔太郎がそこにシネポエムや『文学としてのシナリオ』なるエッセイを発表した[13]。 戦後、詩、映画ともに対してネオリアリズムを標榜し、第2次『時間』を主宰していた[1]。また、戦前からレーゼシナリオに関心を持ち、「レーゼシナリオはまた新形式として文學の野を豊かにするだろう」と述べている[14]。 晩年は1963年(昭和38年)から立川市に住まいを構え、現代詩の改革を続けた[3]。1980年(昭和55年)には、詩「石」が彫られた「青少年に贈る碑」(縦80センチ、横180センチの詩碑)が立川市市民体育館(泉町786-11)の前庭に建立された[3]。 著作
詩集
映画評論
作詞共編著
翻訳
関連項目
脚注
参考文献
外部リンク
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