加藤可重
加藤 可重(かとう よししげ - 慶長9年(1604年)8月28日)は[1]、戦国武将・熊本藩主加藤清正の重臣。近江出身。本姓は片岡。通称は初め清左衛門、のち右馬丞。父は片岡庄右衛門国秀。この近江片岡氏のルーツは、三河足助氏の一族で暦応年間(1338年 - 1341年)に足助範秀が足利将軍より近江国粟太郡片岡村(現滋賀県草津市片岡町)の地を拝領したことを機に、姓を片岡と改めたという。この範秀の8代孫が可重の父国秀とされるが、詳細は不明である。子に、加藤正方ら。 生涯天正16年(1588年)、肥後半国19万石の大名となった加藤清正に付随して肥後に赴き、翌天正17年(1589年)には阿蘇郡1万石を与えられ、阿蘇内牧城を再整備し知行支配を行った[2]。 慶長9年(1604年)8月28日没。阿蘇市内牧浄信寺と八代市本町の浄信寺が菩提寺となっており、内牧では今も「右馬丞さん」として親しまれている。墓所は阿蘇市小里湯山(はな阿蘇美の近く)。大きな杉が菩提樹として残っており、その入り口階段右手には福の神大黒天が祀ってある。 脚注
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