加治武雄加治 武雄(かじ たけお、1896年(明治29年)2月13日[1] - 1974年(昭和49年)2月23日[1])は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。 経歴三重県出身[1][2]。1918年(大正7年)5月、陸軍士官学校第30期卒業[3]。同年12月に陸軍歩兵少尉に任官[3]。1926年(大正15年)陸軍大学校に入学し、1929年(昭和4年)同校第41期卒業[4]。 1939年(昭和14年)3月に興亜院華北連絡部青島出張所所員を経て、1941年(昭和16年)3月に陸軍歩兵大佐に進級[2]。ついで、1942年(昭和17年)11月に大東亜省青島総領事館員、1943年(昭和18年)3月に留守第5師団参謀長を経て、1945年(昭和20年)3月に陸軍少将に進み、同年4月に広島師管区参謀長、6月に中国軍管区参謀長となり、第59軍参謀長を兼ねる[2]。 その後、同年7月8日に独立混成第120旅団長に任じられ、静岡・清水にて展開し、本土決戦に備える中で終戦を迎えた[1]。10月3日には東海上陸地支局長に就任し、10月13日には名古屋師管区司令部附となった[5]。 1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[6]。 脚注参考文献
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