劉 瀬章基本情報 |
---|
国籍 |
中華民国 |
---|
出身地 |
中華民国 |
---|
生年月日 |
1911年 |
---|
没年月日 |
1972年 |
---|
身長 体重 |
176 cm 64 kg |
---|
選手情報 |
---|
投球・打席 |
右投右打 |
---|
ポジション |
投手 |
---|
プロ入り |
1938年 |
---|
初出場 |
1938年9月23日 |
---|
最終出場 |
1940年12月8日 |
---|
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) |
---|
|
|
劉 瀬章(りゅう せしょう、1911年 - 1972年)は、中国出身の元プロ野球選手(投手)。
日本プロ野球の南海軍に在籍した。日本プロ野球初の中国出身の選手であり、現在でもNPBで一軍出場のある唯一の中国大陸出身選手である[1]。
来歴・人物
日本の本牧中学ではエース投手として活躍。右のアンダースロー投手であった。
本牧中を卒業後、法政大学へと進み同野球部へ入る。東京六大学野球リーグ戦1932年秋シーズンにおいて若林忠志と共に法政2度目の優勝に貢献した。
1938年に発足したばかりの南海軍へ入団。同年7月24日、南海初の公式戦となる「第2回読売優勝大会」の対ライオン軍戦に先発投手として登板したが、3回3失点で降板、チームも5対8で敗れている。続く7月28日の阪急軍との「南海結成記念試合」でも先発したが、こちらは3回降雨コールドゲームに終わっている[2]。
1940年、4月6日の対阪急軍戦で先発するものの1アウトも取れずに4安打1四球4失点で降板、試合は2対32で現在でも最多失点日本記録の大敗となっている。この後も名古屋軍戦でも2対14で大敗するなど、1つも勝てずに6連敗を喫し[3]現役を引退した。
政野岩夫、平野正太郎と並んで「南海のアンダースロー三人衆」と呼ばれた[4]。武器はカーブ、シュート、決め球はシンカーだった。
詳細情報
年度別投手成績
年
度 |
球
団 |
登
板 |
先
発 |
完
投 |
完
封 |
無 四 球 |
勝
利 |
敗
戦 |
セ 丨 ブ |
ホ 丨 ル ド |
勝
率 |
打
者 |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
敬
遠 |
与 死 球 |
奪 三 振 |
暴
投 |
ボ 丨 ク |
失
点 |
自 責 点 |
防 御 率 |
W H I P
|
1938秋
|
南海
|
6 |
3 |
1 |
0 |
0 |
0 |
2 |
-- |
-- |
.000 |
121 |
27.2 |
25 |
1 |
14 |
-- |
1 |
7 |
1 |
0 |
16 |
13 |
4.18 |
1.41
|
1939
|
28 |
25 |
9 |
2 |
0 |
8 |
12 |
-- |
-- |
.400 |
709 |
161.0 |
138 |
4 |
88 |
-- |
4 |
29 |
0 |
0 |
73 |
43 |
2.40 |
1.40
|
1940
|
30 |
13 |
6 |
0 |
0 |
2 |
8 |
-- |
-- |
.200 |
611 |
130.0 |
129 |
2 |
73 |
-- |
2 |
28 |
1 |
0 |
66 |
43 |
2.98 |
1.55
|
通算:3年
|
64 |
41 |
16 |
2 |
0 |
10 |
22 |
-- |
-- |
.313 |
1441 |
318.2 |
292 |
7 |
175 |
-- |
7 |
64 |
2 |
0 |
155 |
99 |
2.80 |
1.47
|
背番号
脚注
- ^ NPBにのちの中華人民共和国出身の選手は、呂建剛、安旭、崔暁、呉猛、朱大衛、陳瑋、王靖超の7人が在籍したが、いずれも一軍出場は果たしていない(呂と朱以外は育成選手止まり)。
- ^ 南海ホークス刊『南海ホークス四十年史』84ページ
- ^ 講談社刊 宇佐美徹也著「日本プロ野球記録大鑑」559ページ
- ^ 職業野球!実況中継(14年 南海vsセネタース 5回戦)
関連項目
外部リンク