劉文竜
劉 文竜(りゅう ぶんりゅう)は、中華民国の政治家。号は銘三。 事跡清の廩生。宣統年間に辺境での開墾を望み、新疆省に赴任した。塔城(現在のチョチェク市)参賛大臣汪歩端の下で任官している。中華民国時代になると、汪は搭城道尹に任ぜられ、劉もその下で事務に携わった。 1917年(民国6年)、劉文竜は、革命派に敗北して越境してくるロシア皇帝派の軍勢について、事後処理を担当した。1922年(民国11年)3月、新疆省教育庁庁長に任命される。 1928年(民国17年)11月、新疆省政府主席楊増新が暗殺され、金樹仁が後任となる。このときに劉文竜は、新疆省政府副主席兼教育庁庁長に任命された。1933年(民国22年)4月、クーデターの発生により金樹仁はソ連へ逃亡する。劉文竜は、臨時代理として省政府主席の地位に就いた。その後、南京の国民政府が宣慰使として黄慕松を派遣してきた。黄慕松の指示により、8月、劉文竜が正式に省政府主席となり、省内の軍事実力者である盛世才は辺防督弁に任ぜられた。 しかし、まもなく盛世才が省内権力の掌握を狙ってクーデターを起こす。同年12月、劉文竜は盛世才に捕縛され、以後長期にわたり軟禁されることになる[1]。1944年(民国33年)11月、ようやく劉文竜は釈放され、蘭州に隠居した。1945年(民国34年)4月、第4期国民参政会参政員となる。1948年(民国37年)、行憲国民大会代表に選出された。 中華人民共和国成立後も、劉文竜は大陸に留まっている。劉文竜はウルムチに戻り、1950年6月、ウルムチ市人民代表会議代表に選出された。 同年秋、死去。享年81。 注
参考文献
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