前野 景定(まえの かげさだ)は、安土桃山時代の武将。豊臣氏の家臣。本名は坪内景定。豊臣秀次に近習家老として仕えた。官位は出雲守。
生涯
羽柴秀吉(豊臣秀吉)の重臣・前野長康の子として生まれる。はじめ父の別名坪内光景からの偏諱の「景」の字と坪内氏の通字の「定」の字をとって坪内景定と名乗る。後に父長康の「長」の字を賜って前野長重を名乗る。文禄の役の際は父と違って在京した[2]。父と共に豊臣秀次付の家老となって秀次を支えた。しかし文禄4年(1595年)、秀次事件で秀次を弁護したことにより、豊臣秀吉から秀次与党として謀反連座の疑いで父と共に捕らえられ、中村一氏に預けられた。そしてそこで秀吉の命令により切腹した。駿河府中にて切腹ともされる[3]。父もその3日後に伏見六漢寺で腹を切った。
なお景定の妻・御長(おちょう、於蝶)にも捕縛命令が出された。彼女は細川忠興の長女であったため、慌てた細川家では、重臣の松井康之などが奔走し、景定から離縁出家させて、ようやく捕縛を免れたという。また『武功夜話』によると男子、女子それぞれ1人の子がいたとされる[4]が、これら2人の母親が御長だった場合、この子供は明智光秀の曾孫ということになるが、その2人が後にどうなったかは分かっていない。
演じた人物
出典
- ^ 『喜左衛門日次記』には、元亀2年(1571年)に長康が小次郎(長重)のもとを訪れた時、小次郎は六歳であったと記されており、この数え年を逆算すると永禄9年(1566年)となる。またこの年は、墨俣一夜城が築城された年であるとされる(諸説あり)。
- ^ 『武功夜話 巻十七』前野出雲守景定在京の事
- ^ 『細川忠興軍功記』続群書類従第二十輯下「摂政関白秀次御身体果申次第」文禄四年七月中旬
- ^ 『先祖武功夜話拾遺 巻八』前野但馬守長康公の事、前野出雲守景定の事、前野兵庫忠康の事
参考文献