利用者:Iso10970/下書き6
田本研造(たもとけんぞう、 - 1912年<大正元年>10月22日)、別名音無榕山(おとなしようざん)は、紀伊国出身で、幕末から明治にかけて北海道で活躍した写真家。裕福な農家に生まれ、医者を志し長崎で修行する。蝦夷地箱館に渡るが、壊疽により足を切断。その際治療にあたったロシア領事館付医師ゼレンスキーから写真術を学ぶ。
生い立ち紀伊国南牟婁郡神川村(現在の和歌山県熊野市神川町)で、父・茂兵衛、母・具栄の長男として生まれる。 生家は「田本屋敷」と呼ばれ、10反歩の田畑を持ち多くの小作人を持つ豪農であった[1]。
写真家時代明治に入ると、開拓使長官・東久世通禧の面識を得て、しばしば東久世の前で写真術を披露した。1871年に開拓使は田本に札幌の撮影を命じた。
墓は函館市の住吉町共同墓地にある。また、故郷・ 死後1968年(昭和43年)、日本写真家協会が「写真百年 日本人による写真表現の歴史」展を開催し、開拓使時代の田本の写真も展示した[3]。 主要写真登場する作品脚注注釈出典参考文献
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