利用者:Insanity/確率vs確率論この記事にはWikipediaの項目、および確率論についての独自かもしれない見解が含まれています。筆者は、Wikipedia本文に掲載できるような検証可能な事実を求めているのではなく、なぜそれぞれの項目が現状のように書かれているのかという背景を理解しようともがいているだけなのかもしれません。 数学での確率については「確率論」を参照してください。[1] どういうことなのか。確率は数学じゃないのか? 自然数と自然数論が同じように分かれていたらどうなるか。前者はりんごの数を抽象化した概念として自然数を定義する。加算には法則があって、(x+y)+z=x+(y+z)という式を満たす。後者はn = 0 | succ(n) によって再帰的に定義される集合を考える。原始再帰関数addを定義してadd(add(x, y), z)=add(x, add(y, z))を証明する。こんなかんじだろうか。歴史の流れとしてはまず数を数えられるようになって抽象的な数という存在に気がつく、計算ができて、法則が意識されるようになって、公理のようになって、集合論で数学の基礎ができて自然数と加算が定義できるようになって諸性質が証明されるようになったといったところだろう。前者は一番最初の発見された存在として外包的に、後者はすべての仕掛けが明らかにされた存在として内包的に描かれているが、結局は同じ対象といえる。だから、実際にはひとつの項目におさまっているといえる。 さて、確率と確率論は二つの項目に分かれている。自然数と異なり、確率というものを抽象的思考の道具として使うことに人類が慣れ親しんでいないこと。「りんご」にあてはまるべき抽象化すべき対象が、「ある主張が成り立つかどうか」というすでに抽象化されたものであること。数を数えるのと違い、この道具の効用は非決定論的にしか現れないこと。数学的な定義が面倒なこと。(とはいってもペアノの公理もそれなりに面倒だと思うが。)このあたりに「抽象化すべきもの」と「数学によりモデル化されたもの」に隔たりを感じるのかもしれない。 そもそも確率という抽象的道具の扱いは非常にややこしい。自然数という道具は、「ここにりんごが3つあります。あっちにはりんごが4つあります。あわせてから数えてみたらいくつになるだろうか。」「私は予見できます。3+4=7なので7個です。7という概念に対応する個数のりんごを数えることができるでしょう。」というように簡単につかえる。一方で、確率という道具は「いまから箱の中からボールを取り出します。さて、その色が赤いか黒いかを決定論的に申し上げることはできません。しかし、私には、赤いかどうかという問題と、区間[0, 1]の一様乱数をひとつ生成したときに、ある区間Iがあって、その中に入るかどうかという問題が、それが成立すると言っていい尺度の問題において(主観・客観を問わず)同じと見なせるとき、そのIの長さがpである[2]ということができます」。まどろっこしい上に一様乱数という(仮想)デバイスまで登場して意味不明である。
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