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モザンビーク独立戦争(モザンビークどくりつせんそう、英語: Mozambican War of Independence、ポルトガル語: Guerra da Independência de Moçambique )は 東アフリカ南部のモザンビークでモザンビーク解放戦線(FRELIMO、ポルトガル語: Frente de Libertação de Moçambique)とポルトガル軍との間で行われた武力紛争。モザンビークにおいて戦争勃発から1992年のFRELIMOとモザンビーク民族抵抗運動(RENAMO、ポルトガル語: Resistência Nacional Moçambicana)との和平に至るまで約30年間続いた独立戦争と内戦による戦乱期の前半を占める[5]。
概要モザンビーク人によるゲリラ組織FRELIMOは追放先のタンザニア領内で体制を整え[5]、これを根拠地としてモザンビーク北部に侵攻し戦端が切られている。開戦後FRELIMOはソビエト連邦・中華人民共和国・キューバから支援として兵器と軍事顧問団を受け取り、10年以上にわたる暴動を継続することになった[6]。一般的には、リスボンにおけるクーデターを主導したポルトガル軍部における非主流派に対する共産主義者の影響力の増大と、その一方で国際社会からのポルトガル植民地戦争に対する圧力が強まったことが最終的にクーデターの主要因だったと考えられる[7]一方ポルトガルの軍事クーデターはモザンビーク大衆の処遇をめぐる将兵に対する抵抗もその原因のひとつになったとも言われている[8][9]。 戦争の背景→「ポルトガルの植民地戦争 § 背景」も参照
ポルトガル植民地1498年、ポルトガル人の探検家がポルトガル人として初めてモザンビークの海岸に上陸した [10]。この影響力は定住した植民者個人を通じて及ぼされたものであり、まだ植民地内の中央集権化はなされなかった[11]。 一方で19世紀の間に東アフリカの殆どの地域を影響下に収めたイギリスは、その影響力の行使を容易にするため、ポルトガル植民都市との関係強化を必要としていた[6]。その結果、ポルトガルはイギリス海軍との衝突回避の目的もあって、イギリスと現在のモザンビーク国境にあたる国境を1881年に画定した[10]。モザンビークの支配はイギリスからの経済的支援と採鉱と鉄道敷設に関して安価な労働力の提供を受けた団体であるモザンビーク会社・ザンベジ川会社・ニアサ会社に移ることになった[10]。 この時期に内陸部、現在のジンバブエからモザンビークにかけての部族の集合体であるガザ帝国はポルトガルに抵抗したが、1895年に打ち破られた[6]。この1902年にポルトガルはポルトガル領モザンビークの首都としてロレンソマルケスを設置した[12]。 1926年、5月28日クーデターをはじめとする政治的経済的危機によってポルトガルは第二共和制(エスタド・ノヴォ)に移行した。この新政権は再びアフリカの植民地に興味を示した。ポその一方で第二次世界大戦後間もなくの世界的な脱植民地化の波と相次ぐ植民地独立の影響を受け、モザンビークにおける民族自決の呼び声も高まった[2][11]。 FRELIMOの結成1951年、ポルトガルは国連が漸次解放するように勧告した「植民地」にあたらないと主張し、かつ自国の植民地がより大きな自治権を持つことを世界に示すためにモザンビークを海外領として指定した[13]。名称はモザンビーク海外州(ポルトガル語: Província Ultramarina de Moçambique)とされたが、名ばかりの変更であり、ポルトガルは依然として海外州に対する強大な支配力を維持していた。アフリカ先住民に対する不適切な扱いが引き続き行われる中、第二次世界大戦後年々アフリカ国家の独立が続く[2]のに従い、モザンビークの民族主義勢力もその力を強めていった[10]。 結果、1960年までに25万人以上の労働者がダイヤモンド鉱山や金鉱山での労働に携わることになった[2][10][11][14]。 1950年当時、およそ5,733,000人のモザンビーク人のうち、ポルトガル植民地政府によって選挙権が与えられていた者は4,353人に過ぎなかった[11]。 ポルトガル人とモザンビーク先住民の間に深い溝があることは、黒人と白人との混血(ムラート)が少ないことからも窺い知ることができる。1960年の人口調査によれば、800万人以上いたモザンビークの人口のうち、混血の人口は僅か31,465人に留まっていた[2]。 また、先住民にとっての自らの文化と伝統が外来のポルトガル文化によって蹂躙される状況が随所にみられた[11]。 1962年6月25日、マルクス・レーニン主義解放組織であるモザンビーク解放戦線(FRELIMO、 ポルトガル語: Frente de Libertação de Moçambique)が後にウジャマー社会主義を標榜することになる隣国タンザニア最大の都市であるダルエスサラームで結成された[15]。この大会中に、モザンビーク政界から追放された集団である[16]独立モザンビーク・アフリカ連合(ポルトガル語: União Nacional Africana para Moçambique Independente,UNAMI)、モザンビーク・アフリカ民族連合(英語: Mozambique African National Union,MANU)、2年早く結成されたモザンビーク国民民主連合(ポルトガル語: União Democrática Nacional de Moçambique,UDENAMO)の3勢力が合流して結成された。 しかし、独立派の政治活動はモザンビークにおける反体制活動に対する弾圧のために、国外のみに限られていた[11]。 翌1963年、FRELIMOは社会学者のエドゥアルド・モンドラーネを首班とした司令部をダルエスサラームに設置し、ポルトガルからの独立に向けての活動を本格的に開始した。[17]。 国連もまたポルトガルに対し植民地を解放する政策を取るよう圧力を掛けていた[12]。しかしポルトガルは逆に東側諸国から支援を受けたモザンビークの民族主義者への独立支援を中止しない場合、NATOからの脱退を行うと示唆し[2]、その結果西側諸国からの圧力は弱まった。 ソビエト連邦の支援→「冷戦 § 冷戦の展開」も参照
冷戦の期間中、特に1950年代後半、東側陣営のソビエト連邦及び中華人民共和国は西側陣営である西欧諸国が保持するアフリカの植民地について本国から分裂させることで不安定化を図る戦略を採用した[18]。ニキータ・フルシチョフソ連共産党第一書記によれば、「人類社会の未開発の三分の一」は西側陣営を弱体化すると考えられていた。ソ連にとって、この時点のアフリカには西側諸国と植民地資産との関係を裂き、将来のアフリカにおける共産主義に好意的な国際関係を構築する意味が見出されていた[19]。モザンビークの複数の互いに対立する民族主義者グループが、この時期の他のアフリカ諸国と同じように、ソビエト連邦からそれぞれ武器の供与と訓練の便宜を受けていた[20]。 エドゥアルド・モンドラーネの後継者であり、後にモザンビーク人民共和国大統領になったサモラ・マシェルはソビエト連邦と中華人民共和国の支援についてこう語っている。「(ソ連・中国からの支援は)我々を本当に助けてくれる唯一のものである。彼らは武装闘争の経験があり、モザンビークが行おうとすることに役立つことを教えてくれる」[21] ゲリラ部隊は反政府活動や政治戦略に関する指導を受けることと並行して1972年にはソ連・東ドイツ・キューバからの1600人からなる軍事顧問団とともに122mmロケット砲[19]の軍事援助を受けた[22]。 1981年の時点まで、230人のソ連軍事顧問団と800人のキューバ軍事顧問団がモザンビークに残留している[19]。例としてアンゴラ・エチオピア・ギニアビサウ・コンゴ共和国が挙げられる[23][24]。 紛争モンドラーネの反乱 (1964–69)独立の可能性はポルトガル軍に対する軍事的勝利ではなく、政治的交渉によるリスボンからの独立を勝ち取ることにあると考えられていた[2]。 ポルトガル政府は開戦以降常に戦争状態に置かれていたが、1964年から1967年にかけて駐留兵員数を8,000人から24,000人に増派することで不穏な状態を収めようとしていた。[25]。 FRELIMOの軍事部門はアルジェリアで訓練を受けたフィリペ・サムエル・マガイアの指揮下にあった[26]。 1964年になって平和的な交渉をFRELIMOは断念し、1964年9月25日、エドゥアルド・モンドラーネはタンザニア国内の拠点からモザンビーク北部に対するゲリラ戦の開始を命令した。[14] 反乱勢力は主にライフル銃や短機関銃等で武装しており、退却時の追撃を避けるため雨季を最大限に利用した。[2]さらにFRELIMOの部隊は周囲の自然環境や村落から食料を徴発することが可能だったため、長い補給線による行動の制約を受けなかった[27]。 FRELIMOの兵士はしばしば10人から15人の小グループ単位で作戦活動を行っていた。 FRELIMOの紛争初期における散発的な攻撃は拠点に集中配備されたポルトガル軍を分散させようと企図されたものだった[2]。 しかしながらFRELIMOの作戦規模が拡大しているにも関わらず、補給線がルブマ川とマラウィ湖でカヌーを利用していたことから、攻撃は前哨部隊を対象にした小規模なものに限定されていた[2]。この増加で、襲撃部隊の規模を引き上げることが可能になった。FRELIMOに対する民衆の支援は主に追放されたり紛争を避けるためにタンザニアに避難したモザンビーク人によるものであった。[2]反乱勢力は攻撃に際し地雷を併用してポルトガル軍の被害を大きく拡げ、部隊の施設を機能不全に陥らせ[28]、兵員の士気を低下させた[2]。 1966年10月10日または10月11日[29]、前線からタンザニア領内に向けて帰還中のFRELIMOの軍事部門のリーダー、フィリペ・サムエル・マガイアが狙撃され、死亡した。 1967年の時点でFRELIMOは人口の7分の1と国土の5分の1を掌握していた[30]。またこの時点でのFRELIMOの兵力は戦闘状態にある者だけで約8,000名を数えていた[2]。またFRELIMOの襲撃部隊は場合によっては100人以上の兵士によって構成されるものになり、その階級体系の中に女性兵士も組み入れることになった[31]。 そのためモンドラーネはこの時点でソビエト連邦と中華人民共和国を初め各国に支援を求めた[2]。その結果、大口径の機関銃や対空砲、75mm無反動砲、および122mmロケット砲等を受け取った。[32] 1968年、FRELIMOの第2回大会が行われたが、この際制空権を持っていたポルトガル軍の大会会場への爆撃が一日遅れたため、大会は無事執り行われ独立勢力にとって宣伝的な勝利をもたらした[2]。 この結果は後の国連におけるFRELIMOの発言に大きな重みを与えることになった[33]。 ポルトガルの開発計画この計画は道路、鉄道、橋梁、ダム、灌漑施設、学校、病院等の建設計画が含まれ、計画の実行について高い経済成長を示す試算が行われており、ポルトガル大衆に支持されていた[6][34]。 ポルトガル政府はこのダム建設をフランスの宗教史家エルネスト・ルナンやイギリスの作家ラドヤード・キップリングらによって侵略の正当化としてたびたび唱えられた「文明の使命」(英語: civilizing mission)[35] として捉えており[36]、 このダム建設を通じて、ポルトガル植民地政府の力量と治安を世界に再び示そうと考えていた。 このため、ポルトガル政府は3,000名からなる新しい部隊と100万を超える数の地雷とをこのダム建設を防衛すために投入した[2]。 そこでFRELIMOはカボラ・バッサの建設現場に向けて移動する輸送手段に攻撃目標を変更した[2]。 また、ダム建設によって数年に一度下流域に起きていた洪水を防止したため、洪水によって肥沃になっていた下流の土地が痩せる悪影響があった[37]。 エドゥアルド・モンドラーネの暗殺ただし別の情報源によれば爆弾はFRELIMO司令部におかれたモンドラーネの椅子の下で爆発しており、どの派閥・所属の者によって行われたかは定かでないともされている[38]。 ラザロ・カバンダーメについては保守的すぎるという理由による不信感を生前のモンドラーネは隠しておらず、またタンザニア警察もまたポルトガルの秘密警察であるPIDE(国防国際警察)と共謀してモンドラーネを暗殺したという理由でカバンダーメは起訴されていた。カバンダーメ自身は2ヶ月後の1969年4月にポルトガルに投降している[2]。暗殺の詳細に関しては現在もなお議論が続いているが、その中で多くの歴史家や伝記作者がポルトガル政府、中でもアギンター・プレスやPIDEの関与について言及し、また暗殺がポルトガルにおけるグラディオ機構(イタリア語: Organizzazione Gladio)のような並列部隊(英語: Stay-behind)であるアギンター・プレスによって支援されていることが示唆されている[39]。しかしながら当初は責任の所在が不明確だったことから、モンドラーネの死はFRELIMO内部の序列に関する疑惑の発生や後継者人事に関する権力闘争を引き起こした[16][40]。この権力闘争の結果、暗殺前はモンドラーネの事実上の後継者と考えられていた、中道主義者であり1969年までモンドラーネの下でFRELIMO副代表を務めたウリア・シマンゴ師(Rev. Uria Simango)が、強硬派のサモラ・マシェルとマルセリーノ・ドス・サントスによってFRELIMOから追放・逮捕監禁され、結果的にFRELIMOが大きく左傾化する原因になった[16][40]。 戦争の継続 (1969–72)こうしたカウルザ・デ・アリアガ准将による戦略の一部はアメリカの陸軍参謀総長・ウィリアム・ウェストモーランドとの会談の影響から生まれている[2][28]。 部隊は地方の部族民によって指揮され、特に追跡・偵察・対テロ作戦に用いられた[41]。これらの部隊は革命の結果ポルトガルが独立を認めた後内戦状態に至った際にもFRELIMOの活動の障害になり続けた[42]。 1970年から1974年の期間を通じて、FRELIMOはその活動を都市におけるテロを重点化し、ゲリラ戦を激化させた[2]。 地雷の使用も激増し、この時期のポルトガル人の死傷者のうち3分の2が地雷を原因としたと言われている[28] 地雷への恐怖と、それに結び付けられた敵軍を見ることなく死傷者を発生させるフラストレーションとが軍の士気を低下させ、さらに地雷恐怖症は蔓延していった。[2][28] 作戦には35,000名[2]のポルトガル軍部隊が参加し、空挺部隊・コマンド部隊・海兵隊・海軍のフュージリア部隊のような一線級部隊が多く参加した[26]。 ポルトガル軍の死傷者がFRELIMOの死傷者を上回るに至って、軍に対する本国政府からのさらなる政治的介入を招いた[2]。 ポルトガルによる紛争中最大の恒星とされる「ゴルディオンの結び目作戦」においても、ゲリラ部隊がポルトガル政府にとって脅威でないとみなせるほど弱体化させる作戦だったにも関わらず、ポルトガル政府や、一部の将校からはこの作戦は失敗であり、不十分な戦果しか挙げていないと考えられていた。[2] 戦略の転換 (1972–74)報告によれば、1972年12月16日、テテから約30km離れたウィリヤム(Wiriyamu)村の村民を殺害されている。[2] 「ウィリヤムの虐殺(英語: Wiriyamu Massacre)」と呼ばれているもので、ポルトガル兵によってFRELIMOの支援者であると看做された女性と子供が大勢を占める村人が皆殺しにされたが、その数は60とも400とも言われている。しかし、この調査については後に殺害はポルトガル軍によるものではなくFRELIMOによるものであるとして、ダルエスサラームの大司教、ロリーン・ルガムバ(Laureaen Rugambwa)の調査によって反訴されている[43]。 また、1973年までにFRELIMOはポルトガル軍に対する市民の信用を失墜させるため、一般市民の居住地に地雷を敷設する作戦をとった[2]。ポルトガル政府は『移住村:ここの水はどなたでも使うことができます(ポルトガル語: Aldeamentos: agua para todos)』という表示を農村部の地域に掲げ、反乱側の住民を移住させることで民間人の居住地とFRELIMOの根拠地とを分断する施策を行った[44]。逆に、モンドラーネのとった民間ポルトガル人に対する寛容な政策は、1973年に就任した新司令官、サモラ・マシェルによって破棄された[45]。「恐慌、頽廃、自暴自棄、無力感……それがモザンビークにおける白人の反応のすべてでした」と戦争歴史学者、トーマス・ヘンリクセン(Thomas H. Henriksen)は1983年に述べている[28]。 この戦術上の変化はモザンビークのポルトガル系住民によるリスボン政府への抗議へ繋がり、[2] 厭戦的な現地の感情が伝えられた。 あるポルトガルのジャーナリストはこう語っている。
政情不安と停戦 (1974–75)ポルトガルの植民地戦争によってポルトガルの軍事費は国家予算の44パーセントを占めるに至っていた[2][8][9]。 「ニアサ」はモザンビークの州のひとつであるニアサ州にちなんで命名された船であり、攻撃を受けた際は、リスボン港からポルトガル領ギニアで展開する兵員を輸送する準備をしていた。また、1974年のカーネーション革命の際には10万人の徴兵忌避者が記録されている。[47] またリスボン政府の政権交代により、多くの現地の将兵が戦闘の継続を拒否し、しばしば哨戒行為を行わず兵舎に立て籠っていた[47]。ルサカ合意の後、正式な独立日は1975年6月25日、FRELIMOの結成13周年の記念日に設定された[2]。 戦後の影響ポルトガル人の処遇多くのアフリカのヨーロッパ人植民地においては1900年代初頭に移住が行われたが、この時期には既に都市部のポルトガル人は自らの支配地域に白人の家族が移住し彼らが利用するための施設を建設し、数世代にわたって定住していた[48][49]が、旧支配層への報復を恐れ約30万人のポルトガル人・他のアフリカ人及び混血を含む市民がレトルナドス(ポルトガル語: Retornados)として知られる難民としてモザンビークを去った。モザンビークに残った白人の中にはモザンビーク民族抵抗運動(RENAMO)として白人政権であったローデシア、ローデシア政権が倒れジンバブエ共和国が成立して後は南アフリカ共和国からの支援を受けFRELIMOに抵抗し、その後約20年にわたる内戦状態となった[50][5]。RENAMO はFRELIMOの近代化路線に不満を抱く先住民を味方に引き入れ、内戦は白人対黒人の戦いではなく、「黒人同士の戦い」という形をとるようになった[5]。ただし、南アフリカおよびアメリカ・イギリスの保守政権の支持を受けたRENAMOと周辺のアフリカ諸国と東側諸国の支持を受けたFRELIMOによる内戦は冷戦下の代理戦争としての色彩も帯びていた[5]。 政治動向不景気・社会的な退行・マルクス主義者の全体主義的傾向・汚職・貧困・経済的不平等・失敗した計画経済が革命初期の情熱を失わせていった[51][52]。 装備FRELIMOによって使用された装備また、FRELIMOは支援火器として迫撃砲や無反動砲、RPG-2・RPG-7等の対戦車擲弾発射器、ZPU-4のような対空火器を用いている。[53] 紛争を通じたポルトガル機の撃墜例は、G.91R-4がエミリオ・ロレンソ大尉(Emilio Lourenço)の判断で早期に自爆した一例のみである[26]。 また、海岸線防御に使用するPDM水際地雷のような水際地雷も使用された[53]。
ポルトガル軍によって使用された装備MG42や1968年にはHK21が機関銃として使用され、60mm・81mm・120mm迫撃砲及び榴弾砲、フランス製のパナールAML装甲車、パナールEBR装甲車、イギリス製のFV 721フォックス装甲車、ポルトガルでV-150コマンドウ装甲車を元に開発されたブラビア・シャイミーテ(Bravia Chaimite)等装甲車両の支援を受けた[53]。 地上部隊に対する航空支援としてT-6、F-84、後期にはフィアットG.91が[26]、また偵察機としてドルニエDo27が、輸送手段としてポルトガル空軍はノール・ノラトラ及びC-47が使用され、ポルトガル海軍は輸送も含めた広範囲の用途に哨戒艇・揚陸艇・複合艇を使用した。 関連項目脚注
参考資料参考文献
ウェブサイト
外部リンク
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