利用者:Earthbound1960/Sandbox/work3

昭和3年の西田幾多郎

場所の論理(ばしょのろんり)とは、中期西田哲学の中心的思想。歴史的世界を「絶対無」もしくは「無の場所」の自己限定と考え主観主義[1]の克服を目標とした日本で最初の本格的な哲学体系である[2]


場所の着想

西田が場所について着想を得たのは、論文集『働くものから見るものへ[3]』の前編に記載されている『表現作用[4]』の中に

私は或物が變ずる、或物が動くと云ふことと、或物が意味を表現する、意味の表現であると云ふことの區別を、()()()()()()()()()に於いて考えることが出来ないかと思ふ。 — (『表現作用』 西田幾多郎全集 第4巻 西田幾多郎著 164ページ 13〜14行目より引用[5])

とあり、『表現作用』において場所についての考え方がまとまり『働くものから見るものへ』の後編の論文『働くもの[6]』で場所についての考えが明確になった[7]


場所の論理に至る経緯

西田の思想の出発点は『善の研究』における根本的実在である主客未分の「純粋経験」である[8][9]。 西田は純粋経験を唯一の実在として純粋経験とはピュシス[引用 1][10]に到達することだと考え純粋経験から全てを説明しようと試みた[9]。 純粋経験において根本とされた真実在はフィヒテ事行の中に答えを求めようとした。しかし西田が求めたものはフィヒテの定義するような理性的性質の強いものではなく神秘主義的で直感的なものであり[8]主観的観念論の色彩が濃いものであった[11]

また、西田の考える純粋経験は3つの意味を持っており、1つ目は生まれたばかりの乳児の意識のような明暗の区別すら出来ない混沌とした状態を指し「直接経験」と定義している。2つ目は、意識が不統一の状態で意識が分化、発展することによって意味や判断が生じる状態で、反省[引用 2][12]的思惟が主体となる段階である。3つ目はの段階は「純粋経験」が最も深まった状態で「知的直観」と呼ばれる段階である[13]。 しかし、主客未分の状態からどのようにして主観と客観の分裂状態が生じるのか、意識の直感的状態がどのようにして反省状態に遷移するのかがうまく説明できない、純粋経験の認識論的な根拠も乏しい、という弱点を持っていた[9][14]

ここで、主客未分の状態からどのようにして主観と客観の分裂状態が生じるのかという問題を解決するために新たに考え出されたのが「自覚[引用 3][引用 4][15]という考え方である[9][14]。自覚とは自己の内面に自己自身を映す働きのことであるが、この場合は映すものと映されるものが同一である[16]。「直観」と「反省」が同じであり、自己自身を「反省」する(反省的思惟)ことが「直観」ということであり、逆に「直観」することが自己を「反省」することである[17]

自覚とは超越的な統一意識であり、意識そのものの内なる必然性に従って「反省」が生じてくる。この「反省」によって意識は知識を自分の内に取り込み発展していく。「反省」が「直観」によって、自己の内側にある超越的な統一意識とひとつなるのが「自己の超越的同一」であり、意識がこの状態にあることを「自覚」の意識と西田は定義づけた[18]

このような考察の進化の結果、純粋経験は純粋経験の自覚へと深められたが、純粋経験も自覚も根本的実在を作用や働きに求めているという点では一致している。ここまでの思想はフッサールの思想における作用主義[引用 5][19][20]および、主意主義[引用 6][19]の一形態であった。純粋経験の根本を意志の作用の中に見出し、自覚の根源を絶対自由意志に求めたのは、主意主義的な考え方に由来しているといえる[17]

西田は「純粋経験」、「自覚」、「絶対自由意志」へと実在の本質を掘り下げていく中で、「経験」、「自覚」、「意志の動き」といったものが、「そこに於いて」生じる「場所」と言う考え方に到達した[17]


場所の論理とは

引用

  1. ^ ヘラクレイトスによれば、ピュシス(自然)は「隠れることを好む」とされ、常に隠されている存在なのですが、ロゴスの立場というのは、自然は完全に人間の理性の中で暴かれていて、その隠れなさゆえに全てが理解し尽くせると考える立場です。人間の理性にとって矛盾して相反するものは、見ることも理解することもできないものであるから問題にする必要がないとして、ヘラクレイトスなどのピュシス的な立場から、人間の理性に合致するもの、隠れなく「見えているもの」の原型・模範をのみ探求するロゴスの立場へと哲学が転換するのが、ソクラテスプラトンの時代です。】(池田善昭・福岡伸一著『福岡伸一、西田哲学を読む 生命をめぐる思索の旅、動的平衡と絶対矛盾的自己同一』40頁9行目〜15行目より引用)
  2. ^ 反省 reflectionの訳。内省とも訳す。外界に向かっていた知性の働きが反転して自己に向かう働きをいう。ロックは、我々の経験を外的な経験と内的な経験に分けて、前者を感覚と呼び、後者を反省と呼んだ。したがって、哲学の専門用語としての反省は、一般に知性の内に向かう働きをいうのであって、そこには日常言語としての反省のような道徳的・倫理的な意味は含まれていない。】(小坂国継著『西田幾多郎の思想』』357頁15行目〜18行目より引用)
  3. ^ 池田「『自覚』というのは、私達は時間で測れる『時刻』というものの中で生活しているんだけれども、しかし、その時刻の中には、時の流れというそのものが隠れているわけですね。その隠れているということを『自覚』するということです。」】(池田善昭・福岡伸一著『福岡伸一、西田哲学を読む 生命をめぐる思索の旅、動的平衡と絶対矛盾的自己同一』237頁7行目〜9行目より引用)
  4. ^ 池田「ですから、自覚という西田の言い方は、ロゴス的思考のように、見えないことを見えるようにするのではなくて、まさに『自覚』する以外にないという(笑)。『自覚』という言葉のこういった使い方というのは、従来の哲学にはありませんでした。」】(池田善昭・福岡伸一著『福岡伸一、西田哲学を読む 生命をめぐる思索の旅、動的平衡と絶対矛盾的自己同一』237頁13行目〜15行目より引用)
  5. ^ 作用主義:ここでは、世界の根本的実在を、なにか恒常不変な実体と考えるのではなく、むしろ純粋な活動や作用と考える立場を言う。】(小坂国継著『西田幾多郎の思想』362頁13行目〜14行目より引用)
  6. ^ 主意主義:一般に知・情・意の能力の内、意志の働きを根源的とする立場を言う。主知主義に対する言葉。】(小坂国継著『西田幾多郎の思想』362頁11行目〜12行目より引用)


脚注


参考文献

関連項目