利用者:Cyclops/特別書庫-5
生涯相模国足柄上郡栢山村(現在の神奈川県小田原市栢山〈かやま〉)にて、百姓・利右衛門の長男として生まれる。当時の栢山村は小田原藩領であった。彼がまだ5歳であった[いつ?]1791年(寛政3年)8月5日、南関東を襲った暴風で付近を流れる酒匂川の坂口の堤が決壊し、金次郎の住む東栢山一帯が濁流に押し流されてしまった。その影響で田畑は砂礫と化し、父・利右衛門の田畑も流失した。 14歳で父・利右衛門が、その2年後に母「よし」が立て続けに亡くなり、尊徳は伯父・二宮万兵衛の家に身を寄せることとなった。伯父の家で農業に励むかたわら、荒地を復興させ、またわずかに残った田畑を小作に出すなどして収入の増加を図り、20歳で生家の再興に成功する。この頃までに身長は6尺(約181.8センチメートル)を超えていたという伝承もある。また、体重は25貫(93.75キログラム[1])あったといわれている。 生家の再興に成功すると尊徳は地主経営を行いながら、自身は小田原に出て武家奉公人としても働いた。奉公先の小田原藩家老服部家でその才を買われて服部家の財政建て直しを頼まれ、見事に成功させて小田原藩内で名前が知られるようになる。その才能を見込まれて、小田原藩大久保家の分家であった旗本宇津家の知行所であった下野国桜町領(栃木県旧二宮町周辺、なお同町の町名の由来は二宮尊徳である。現在の真岡市旧二宮町地域)の仕法を任せられる。のちに東郷陣屋(同じく真岡市)にあって天領(真岡代官領)の経営を行い、成果を上げる。その方法は報徳仕法として他の範となる。その後、日光山領の仕法を行う。 下野国都賀郡今市村(明治期の栃木県上都賀郡今市村、現在の栃木県日光市今市)の報徳役所にて満69歳で死去した。戒名は誠明院巧譽報徳中正居士。尊徳の娘文子は尊徳四大門人の筆頭・富田高慶に嫁いでいる。 尊徳の仕法は他の農村の規範となった。没後の1891年(明治24年)11月16日に従四位が追贈されている。 二宮尊徳をまつる「二宮神社」が、生地の小田原(報徳二宮神社)、終焉の地・今市(報徳二宮神社)、仕法の地・栃木県真岡市(桜町二宮神社)などにある。尊徳記念館が神奈川県小田原市栢山にある。栃木県真岡市にも二宮尊徳資料館がある。 逸話
尊徳に関しては多くの逸話が残っている。事実かどうか確認できないものも多いが、伝記などに多く記述される代表的な逸話には次のようなものがある[2]。 小田原時代
桜町時代
子孫
門人
後世の尊徳像偶像各地の小学校などに多く建てられた、薪を背負いながら本を読んで歩く姿に関する記述は、1881年(明治14年)発行の『報徳記』で現れる。報徳記を基にした幸田露伴著の『二宮尊徳翁』(1891年〈明治24年〉)の挿絵で、薪を背負って歩く姿の挿絵が初めて使われた。確認されている最初のこの姿の像は、1910年(明治43年)に岡崎雪聲が東京彫工会に出品したものである。1904年(明治37年)以降、国定教科書に修身の象徴として尊徳が取り上げられるようになった。文部省唱歌にも『二宮金次郎』という曲がある。 これらの学校教育や、地方自治における国家の指導に「金次郎」が利用された経緯には、尊徳の実践した自助的な農政をモデルとすることで、自主的に国家に献身・奉公する国民の育成を目的とした統合政策の展開があった。この「金次郎」の政治利用は、山縣有朋を中心とする人脈によって行われており、特に平田東助・岡田良平・一木喜徳郎らによる指導が大きかった[5]。 小学校の校庭などに見られる金次郎の立像は、彼らの政策によって展開された社会環境を前提として、国家の政策論理に同調することで営業活動を行った石材業者や石工らによって広まったとされる。小学校に建てられた「金次郎像」でもっとも古いものは、1924年(大正13年)、愛知県の前芝村立前芝高等尋常小学校(現・豊橋市立前芝小学校)に建てられたものである。その後、昭和初期に地元民や卒業生の寄付によって各地の小学校に像が多く建てられた。そのとき、大きさが1メートルとされ、子供たちに1メートルの長さを実感させるのに一役買ったといわれることがあるが、実際に当時に制作された像はきっかり1メートルはないことが多い。これは、1940年(昭和15年)ごろに量産された特定の像に関する逸話が一人歩きしたものと考えられる。この像が第二次世界大戦後、GHQの指令によって廃棄されたといわれることもあるが、アメリカ軍占領下にあった1946年(昭和21年)に発行された日本銀行券(1円券)の肖像画として二宮尊徳が採用されていることからも分かるとおり、像の減少と連合国軍最高司令官総司令部は特に関係は無い。戦前の像は青銅製のもの(銅像)が多く、これらの多くが第二次世界大戦中の金属供出によって無くなったため、混同されたものと考えられる。石造のものはその後の時代も残った。また、残った台座の上に、新たに銅像や鉄筋コンクリート像などが作られることもあった。像のように薪を背負ったまま本を読んで歩いたという事実が確認できないことと、児童が像の真似をすると交通安全上問題があることから、1970年代以降、校舎の建て替え時などに徐々に撤去され、像の数は減少傾向にあるほか、「児童の教育方針に合わない」などの理由で、破損しても補修に難色を示す教育委員会もある[6]。岐阜市歴史博物館調べによると、市内の小学校の55.1パーセントに「二宮金次郎像」が存在し(2001年〈平成13年〉時点)、近隣市町村を含めると、58.5パーセントの小学校に「二宮金次郎像」が存在する。ただしこれは局地的な統計であることに注意する必要がある。ゆかりの地である栃木県真岡市の旧二宮町地区(旧・芳賀郡二宮町)では、地区内の全小中学校に像がある(2004年時点)。また、2003年(平成15年)に小田原駅が改築され橋上化された際、デッキに尊徳の像が新しく建てられた。 また、撤去した像が骨董品として売却されることもある。「金次郎像」が何者かによって持ち去られるという盗難事件もこれまでに全国で数件発生している。持ち去りには建設機械が必要であるのでプロの犯行と見られる。幸いにして発見され、元の場所に戻すことができたケースもあった。 フリー二宮金次郎2009年(平成21年)10月、イタリア人留学生ステファノ・ロドラ(ロドラ・ステファノ)が「フリー二宮金次郎」というボランティア活動を始めた。その名の由来は世界中に普及している「フリー・ハグ」(自由な抱擁)に因んでいる。 主な活動としては、道行く人に声をかけ、本を読みながら、ほんの少し一緒に歩いてもらうというものである。歩きながら本を読んだり、通勤通学の電車やバスの中で本を読むことで、移動中の時間を有効に使うことを目指す。働きながら勉強をしたと言われる二宮金次郎のように、活字離れの傾向が強い若者はもちろん、多くの日本人に今一度本と向き合い、自己啓発に努めてもらうことが目的である。 その他の創作作品
脚注
参考文献
関連項目外部リンク
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