利用者:稲垣啓二/sandbox3
真壁 賢守(まかべ けんじ、1986年5月3日 - )は、宮城県村田町出身の元社会人野球選手[1]。 東北高校時代はダルビッシュ有と共にチームを支え、黒い眼鏡が話題となり「マカベッシュ」、「メガネッシュ」と呼ばれた。 経歴高校時代宮城県村田町出身。村田町立村田第一中学校時代にはエースとして全国大会に出場[2]。東北高校へと進学し、2年生であった2003年に当時監督であった若生正廣の助言でサイドスローに転向した[1]。同年の第85回全国高等学校野球選手権大会に背番号18で出場し、1回戦の筑陽学園戦で甲子園初登板を果たし、勝利へと導いた。その後もダルビッシュ有との2枚看板で近江、光星学院などの強豪校を破り、決勝へ進出したが登板機会は無く、チームも2-4で常総学院に敗れ、東北勢初の優勝とはならなかった[3][4]。その後の第58回国民体育大会では1回戦で小松島高等学校に敗れた[5]。3年生の春からは背番号10を着け第76回選抜高等学校野球大会に出場し、2回戦はリリーフでの登板に終わったが、準々決勝の済美高校戦で先発し、9回2死まで6-4とリードしていたものの、後続に連打を浴び主将の高橋勇丞にサヨナラ3ラン本塁打を浴び、準決勝進出とはならなかった[1][6]。後に真壁はこの試合を人生のベストピッチだったと語っている[1]。夏の大会は背番号18を着け[7]第86回全国高等学校野球選手権大会に出場。1、2回戦は登板がなかったが3回戦の千葉経済大学附属高等学校でダルビッシュの後を受けて登板し、最小失点に抑えたがチームは延長戦で敗れた[6]。3学年上に高井雄平、2学年上に佐藤弘祐、1学年下に加藤政義がいた。 大学・社会人時代高校卒業後は東北福祉大学に進学[1]。公式戦では通算7勝、防御率1.83の成績を残すも度重なる故障に悩まされた。大学卒業後はHondaに入社。Honda硬式野球部に入部[8]。都市対抗野球出場に何度も貢献した後、2011年に引退[1]。その後は投手コーチ兼マネジャーとしてチームを支えたが2016年に野球部を退部。現在は総務部に勤務している[2]。 脚注
関連項目
山本 大貴(やまもと ひろき、1994年6月27日 - )は、兵庫県淡路島出身の元社会人野球選手[1]。 高校通算107本塁打は清宮幸太郎の高校通算111本塁打に抜かれるまで高校通算本塁打歴代最多記録を保持していた。高校通算107本塁打の記録は清宮に継いで2位の記録である。 経歴兵庫県淡路島出身。淡路市立東浦中学校から神港学園高等学校に進学し[1]、1年生の頃は背番号12をつけながらもセンターを守り、主軸を任されていた[2][3]、高校2年生で2学年上の伊藤諒介が持つ高校通算94本塁打を更新し、最終的に107本塁打まで記録を伸ばし、清宮幸太郎に抜かれるまで高校通算歴代本塁打記録を保持していた。兵庫県大会5回戦では近本光司を擁する兵庫県立社高等学校と対戦し自身は3打数無安打に終わり、チームも敗れ、3年間甲子園出場は無かった[2]。 大会終了後はドラフトの候補にも上がったがプロでは通用しないとの思いから[4]プロ志望届を提出せず高校卒業後はJR西日本硬式野球部に所属するも、目立った活躍はなく2017年限りで引退した[4]。現在はJR西条駅に勤務している[4][5]。 エピソード脚注
関連項目伊藤諒介
伊藤 諒介(いとう りょうすけ、1992年6月11日 - )は、兵庫県姫路市出身の元社会人野球選手[1]。 高校通算94本塁打は山本大貴が更新するまで高校通算本塁打歴代記録を保持していた。現在、この記録は清宮幸太郎、山本、黒瀬健太に次いで4位の記録である[2]。
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