利用者:小萩きりく/sandboxⅠ
概要骨喰(ほねばみ)の名前の由来には諸説がある。『享保名物帳』第2類では戯れに斬る真似をしただけで相手の骨を砕いてしまったためと説明されている。また徳川将軍家の刀剣台帳の写本類[1][2]は骨を縫い綴ったような痛みを感じるからと記し[注釈 1]、また同様に福永酔剣の個人所蔵である『享保名物帳』の享保八年の異本には、これで斬られた場合、骨にしみるように感じるからと記されているという[5]。豊臣秀吉と対面して骨喰を見せられたイエズス会士ジョアン・ロドリゲスは『日本教会史』[6][7]に「軽く振っただけで、根もとから切られた大根のように骨を切るので、骨を丸嚥みにする刀という意である」[注釈 2]と述べている。 ★保留[注釈 3] 来歴鎌倉時代から永禄の変まで近世以前の資料で骨喰藤四郎について最も詳しく伝えているのは軍記『大友興廃記』(1635年)である。それによれば、南北朝時代の幕開けとなる建武3年(1336年)に足利尊氏が九州へ落ち延びた際、大友家当主の大友氏時[注釈 4]が重代の宝刀である吉光骨啄刀(=骨喰藤四郎)を尊氏へ加勢する誓いの証として贈ったという[9][8]。 この逸話は『大友興廃記』の写本の他、元禄期に出版された『筑紫軍記』(1703年)にも再録されて世に知られることになった[注釈 5]。また『享保名物帳』も同様の由緒を載せている。さらに、豊後森藩の藩医木付春碩による『豊陽志』(1721年)は『大友興廃記』の情報に加え、もともと鎌倉時代の建久年間に源頼朝から大友氏の初代当主大友能直へ与えられた名刀だと記している[10][注釈 6] [注釈 7]。ただしこれらは江戸時代の初期から中期にかけて成立した資料である。 これより古い関連資料としては、南北朝時代に成立した『梅松論』の流布本に、建武3年の多々良浜の戦いへ臨む足利尊氏が骨食という刀剣を帯びている描写がある。その日の足利尊氏の軍装は「筑後入道妙恵が頼尚を以て進上申たりし赤地の錦の御直垂に、唐綾威の御鎧に、御剣二あり。一は御重代の骨食也。重藤の御弓に上矢をさゝる。…」[11]というものであった。この「御重代の骨食」が骨喰藤四郎と同じものであるかどうかが、江戸時代の故実家[注釈 8]や近代の刀剣研究家の論議の的となってきた。 福永酔剣は両者を同一の刀剣とみなし、その上で、骨啄=骨食が『大友興廃記』の記述のとおりに尊氏の九州落ちの時点で大友氏の重代だったとすれば『梅松論』の足利氏の重代とする記述と辻褄が合わないという疑義を呈しているが、『大友興廃記』の方の記述を誤りとして、大友伝来ではなく足利伝来であったと結論付けた[8]。 しかし『梅松論』の写本のうち、古態を残す古本系「京大本」には「御剣二。一ハ御重代ノ大ハミ也」と別の剣の名を記している[14][15]など、同一の刀剣とみなすことには慎重を期すべき材料もある。 室町時代後期には、鎌田妙長によって書かれた『常徳院殿様江州御動座当時在陣衆着到』に、1487年(長享元年)9月12日、9代将軍・足利義尚が六角高頼を征伐するため近江国坂本に出陣した際、小者に「御長刀ほねかみと申す御重代をかつかせ(担がせ)」ていたという記録がある[8]。中世文学研究者の鈴木彰は、室町将軍の出陣には重代の刀剣を携えることが慣例になっていたという説の根拠の一つに、このほねかみを挙げている[15]。 また福永はこのほねかみについても骨喰藤四郎と同一視し、骨かみは骨喰みに違いないとして、当時まだ薙刀であったことがわかると述べている[8]。 これより後の足利幕府衰退期の所有移動を語るのは、前述の『大友興廃記』等の軍記及び『享保名物帳』といった江戸時代の書物である。それらによれば、骨喰は尊氏以降、足利将軍家の重要な宝物として代々伝えられていったが、永禄8年(1565年)、13代将軍・義輝が三好三人衆により暗殺された永禄の変のときに奪われて松永久秀の手に渡った[8]。 それを大友宗麟が聞きつけ、大友家こそ元の持ち主であると主張して久秀から買い戻したという[8]。 大友家から豊臣家へ以降も足利将軍家の重要な宝物として伝えられていたが、剣豪将軍として知られる13代将軍・義輝が三好三人衆により暗殺された際に松永久秀の手に渡った[8]R|"京都で遊ぼう"。それを大友宗麟が大友家こそ元の持ち主であると主張して久秀から買い戻した[8]。のちに藤四郎吉光の刀を集めていた豊臣秀吉がこれを求め、松井友閑と千利休の仲介により大友宗麟の子の大友義統から献上されて以降は豊臣家の所有となる[16]。 1585年(天正13年)9月27日付け大友義統宛にて、豊臣秀吉が吉光骨啄刀を受け取ったことに感謝する謝礼の書状が遺されている[注釈 9][18]。 また義統による1586年(天正14年1月26日)の覚書も残っており[19]、秀吉へ渡った大友家の名物として玉澗の青楓絵、小壺茄子、新田肩衝と共に「吉光御腰物骨喰」が記され、「三ヶ年中に天下の名物、豊州より上され候事、奇特神変の由、貴賤批判の由、申候也」と度重なる名物の献上が世間で驚かれ取り沙汰された様子も書き添えられている[注釈 10]。これらの古文書により、秀吉が大友家から召し上げたときには既に薙刀から大脇差に磨り上げられていた[8]ことが分かる。 ★保留『享保名物帳』Ⅱ類には大友家にあったときに刻んで刀に直したと書かれている[注釈 11] ―――――ここから――――― 豊臣家において、骨喰藤四郎は名刀揃いの刀剣台帳に「ほねはみ刀」と記載されたが、一から七の箱のうちの「一之箱」に収められ、かつ筆頭に挙げられている[4][8]。 また天正16年(1589年)12月以降、当時の刀剣鑑定家である本阿弥光徳は大名達の求めに応じ、幾度か豊臣家の刀の数々を絵図に写したが、『光徳刀絵図』と呼ばれるこれらの巻物にもほねはみという名を添えて絵図が描かれた[4][22][8]。 秀吉は、イエズス会士で通事を務めていたポルトガル人ジョアン・ロドリゲスに骨喰を見せている。ロドリゲスは日本を退去したのち、『日本教会史』に秀吉所有の骨喰藤四郎のことを記した。日本には刀の鑑定を生業とする者がおり、すぐれた刀が大変珍重されるとして「これらの刀身の中には、二千、三千、四千、五千クルザードの価格を持ったものがあり、最優秀品は一万クルザードであって、太閤が豊後の屋形(大友宗麟)から一万クルザードで買い上げたもので、太閤がそれを手にしているのをわれわれは見た。その刀を骨喰と呼んでいたが…(後略)」と述べている[7][注釈 12]。なお骨喰藤四郎の代価については、前述の大友義統の秀吉への献上品覚書に「代二千貫・銀子四十貫目 四箱」とも書き留められている[20][19]。 大坂夏の陣を経て徳川家へ大坂夏の陣後の諸説豊臣家の名刀の多くは、秀吉から子の秀頼に継承された後大坂夏の陣で大坂城と共に焼けてしまったが、骨喰藤四郎は無事であった[23]。 『駿府政事録』慶長20年6月29日条には、骨喰を捜し出した本阿弥光室がこれを家康へ献上したところ光室へ下げ渡され、改めて秀忠へ献上して黄金百両の褒美をもらったとある[24][25] 。また閏6月16日条にも先日のこととして骨喰の献上が記されており、まず家康へ、それから秀忠へという顛末は同様ながら、河内の土民(住民)が拾い、光室が家康へ報告したとあって、褒美は黄金五百両銀二千両〔ママ〕である[24][25]。この二重の記述について、佐藤寒山は本阿弥光室が金百両を拝領し、河内の土民が黄金五百両に銀二千両を拝領したと解釈しているが、その上で金十枚(=金百両)が値段として妥当だと評している[24]。『関難間記』やそれを参照した『徳川実紀(台徳院御実紀)』も河内の農民が拾って光室に見せにきたといい[注釈 13]、『享保名物帳』の記述ではさらに発見場所が加わって、大坂城の堀から見つけ出され、見つけた町人が光室のもとへ持参したという流れになっている[8]。 『享保名物帳』によれば、家康は光室が献上した骨喰藤四郎を見て機嫌が良かったものの、長くて重いので差料にはならないと断わった。しかし秀忠に見せてみよと言ったので光室がそれに従ったところ、秀忠には気に入られて差料とされたという。本阿弥家の家伝の『本阿弥行状記』では、大名どもに高値で売るとよい、しかし先に秀忠へ見せよと言われている[28][29]。 秀忠からの褒美の額は資料により金百両(『台徳院御実紀』)、黄金五百両と白銀二千枚(『関難間記』)、黄金五百両と白銀千枚(『武徳編年集成』)、銀三十枚や銀三千枚(『享保名物帳』)とさまざまである[8][5]。『武辺雑談』[30]では河内の百姓へ黄金五百枚銀二千両、本阿弥へ金百両とする。『本阿弥行状記』では白銀三千枚で、光室はそのうち千枚を親の光徳へ、千枚を親類・友人・使用人へ惜しみなく配ったあと、千枚を自分のものとしたという[28][29]。 さらに『本阿弥行状記』は、豊臣秀頼と徳川秀忠の間に、秀頼に仕える木村重成が骨喰を所有したと伝えている。本阿弥光室が一族へ語ったという話によれば、骨喰は大坂冬の陣の際に木村重成が佐竹義宣の家老の渋江政光を討ち取るという大きな手柄を立てて秀頼公より感状と共に拝領した。しかし夏の陣の5月6日、重成はそれを差して井伊直孝勢との若江の戦いで討死した。光室が持参した骨喰を見た家康は、主君から賜った刀を差して潔く討死した重成を「かばねの上の面目」と称えたという[28][29][注釈 14]。徳川家の御腰物台帳は骨喰藤四郎の条に、討死した重成から井伊家の家来が骨喰を剥ぎ取り、それを光室が入手したと説明している[8][2][1]。 他にも軍記『難波戦記』の一部の写本の按文(注釈の段落)には、大坂城の茶坊主が盗み出し大坂の陣後に売り払おうとしたが、天下の名物であったため買い手が付かなかったとある[8][31]。『難波戦記』は諸本の内容の違いが大きく、秀頼の遺骸は焼けてしまっていたが、骨啄が(史実に反し)焼けて側にあったためそれを秀頼であると判定したという本文を持つ本や、名刀なので少しも焼けていなかった、とする本などが残されている。 江戸時代しかしながら江戸時代に入り1657年(明暦3年)、明暦の大火で江戸城の大半が焼失した旧暦1月19日に被災して焼刃となった。その後、3代越前康継によって焼き直しされている[32][8]。 再刃後も高名なことは変わらず、8代将軍・吉宗の命で編纂したという『享保名物帳』にも骨喰藤四郎の記述が遺されている[32]。『享保名物帳』Ⅱ類系統の本にある二つ銘則宗の条の記述によれば、享保4年10月に吉宗が本阿弥光忠・光通を召して質問をしている。その内容は二つ銘の謂れについてと、骨喰藤四郎は井早太の差した骨喰なのかということであった。井早太の骨喰とは『源平盛衰記』で語られている源頼政が鵺退治の際に従者の井早太に持たせた骨食[注釈 15]という刀のことだが、本阿弥の二人は井早太は粟田口吉光の時代より40年程前の人なので違う、と答えている[注釈 3][34]。 そのまま代々の将軍の所有となっていたが、福永酔剣によればおそらく幕末、紀州徳川家へ下賜されたことがあり[8]、1869年(明治2年)7月に徳川宗家へ返還されたという[8]。
★光徳刀絵図の埋忠本には、埋忠が茎(なかご)を切り詰めたことや、以前からあった彫りの手直しをしたことが記されている。(時期の問題があるので作風節へ) 脚注注釈
出典
参考文献
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