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仙台市の町・字(せんだいしのまち・あざ)では、宮城県仙台市を構成する町・字の変遷について述べる。 仙台市は1878年(明治11年)10月21日に宮城県で施行された郡区町村編制法によって成立した仙台区を前身とし、1889年(明治22年)4月1日に施行された市制(明治21年法律第1号)により成立した。市制施行時の仙台市は、仙台城下と宮城郡から編入された地域を含む228の字で構成された[1]。 1940年代戦災復興事業太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)7月10日、アメリカ軍が行った仙台空襲によって、仙台市中心部の約500ヘクタールが焼け野原となり、1万1933戸の家屋が焼失した。終戦後の同年12月30日、「戦災復興計画基本方針」が閣議決定され、市町村長に復興事業施行の権限を与えることが望ましいという方針が示された。これにより仙台市会では全員協議会を開き事業施行について審議し、翌年2月6日をもって戦災復興の事業施行主体を仙台市とすることを決議した。 仙台市は宮城県や国との連携のもと、事業計画を具体化し、特別都市計画法による国庫補助を受けて戦災復興事業を進めることとなった。1946年(昭和21年)5月 1990年代2000年代2010年代仙台市富沢駅周辺土地区画整理事業の町名変更2016年(平成28年)6月17日、仙塩広域都市計画事業 仙台市富沢駅周辺土地区画整理事業の換地処分の公告が行われ、翌6月18日に換地処分に伴う住所変更が行われた。これにより、大野田の一部で丁目が新設され、大野田字王ノ檀、大野田字袋前、大野田字元袋、大野田字六反田、富沢字下ノ内浦が廃止された[2]。なお、区画整理事業区域内の富沢四丁目では住居表示が既に施行されていたため、地番のみの変更となった[2]。
仙台市荒井西土地区画整理事業の町名変更2018年(平成30年)6月15日、仙塩広域都市計画事業 仙台市荒井西土地区画整理事業の換地処分の公告が行われ、翌6月16日に換地処分に伴う住所変更が行われた。これにより、荒井、蒲町、かすみ町、南小泉、長喜城の一部が再編され、なないろの里が新設されたほか、荒井字札屋敷、南小泉字梅木、蒲町字南が廃止された。同日、蒲町とかすみ町の新たに編入された範囲において住居表示が施行された[3]。
泉第二中山地区の住居表示2018年(平成30年)7月23日、泉第二中山地区において住居表示が実施され、実沢の一部で町域の再編が行われ、西中山が新たに新設された[4][5]。
公有水面埋立事業による町域変更2018年(平成30年)10月31日、公有水面埋立法による公有水面埋立事業施行地域および同事業の施行区域隣接地において町の区域変更が行われ、中野の一部が港四丁目に編入された[6]。また、同時に住居表示が施行された[7]。
2020年代仙台市茂庭土地区画整理事業の町名変更2021年(令和3年)6月3日、仙塩広域都市計画事業 仙台市茂庭土地区画整理事業の換地処分の公告が行われ、翌6月4日に換地処分に伴う住所変更が行われた。これにより、茂庭の一部で丁目の新設及び区域の変更が行われ、茂庭字町尻が廃止された[8]。
仙台市富沢駅西土地区画整理事業の町名変更2021年(令和3年)6月18日、仙塩広域都市計画事業 仙台市富沢駅西土地区画整理事業の換地処分の公告が行われ、翌6月19日に換地処分に伴う住所変更が行われた。これにより、富沢と富田の一部で富沢西が新設され、富沢字鍛冶屋敷、富沢字鍛冶屋敷前、富沢字川前浦、富沢字熊ノ前、富沢字寺城、富沢字舞台が廃止された[9]。
仙台市蒲生北部被災市街地復興土地区画整理事業の町名変更2021年(令和3年)9月30日、仙塩広域都市計画事業 仙台市蒲生北部被災市街地復興土地区画整理事業の換地処分の公告が行われ、翌10月1日に換地処分に伴う町名変更が行われた。これにより、蒲生の一部で丁目が変更及び新設され、蒲生字北荒田、山神、中野字牛小舎が廃止された[10][11]。
泉パークタウン朝日地区内の町名変更2022年(令和4年)4月1日、泉パークタウン第6住区である朝日地区の町名変更が行われた。これにより、朝日が新設され、根白石字陰沼北、字針生山ノ内朝日が廃止された[12]。
泉区本田町の町域変更2023年(令和5年)10月10日、仙台市告示第588号によって町の区域変更が告示された。2023年(令和5年)11月7日よりその効力が生じ、天神沢一丁目の一部が本田町に編入された[13]。同時に住居表示の廃止及び区域の変更が行われた[14]。
利府町との境界変更による字の新設2024年(令和6年)1月31日、宮城郡利府町との境界変更が行われ、宮城野区岩切字羽黒前の一部が利府町に編入され、利府町神谷沢字金沢の一部が仙台市宮城野区に編入される予定である[15]。これは仙台市岩切羽黒前利府町神谷沢土地区画整理事業内における新区画の整備によるものである[16]。
脚注注釈出典
参考文献書籍
告示仙台市告示
総務省告示関連項目塩竈市 > 七厩拓/仙台市記事置き場
塩竈市の町・字(しおがましのまち・あざ)では、宮城県塩竈市を構成する町・字の変遷について述べる。 塩竈市は1889年(明治22年)4月1日に施行された町村制によって塩竈町として成立し、1941年(昭和16年)11月23日に市制を施行、1950年(昭和25年)4月1日に宮城郡浦戸村を編入して概ね現在の形となった。1889年の町村制施行時、塩竈町内で39の小字が[1][2]、浦戸村内で4の大字が設定されていたが[3]、住居表示の施行などによって2023年(令和5年)現在は全体で が存在する[4]。 塩竈市の概要町村制町村制施行以前の塩竈村は、支村として七ヶ浜(松ヶ浜・湊浜・菖蒲田浜・花渕浜・吉田浜・代ヶ崎浜・東宮浜)を含む地域であったが、1876年(明治9年)に行政上は塩竈村を離れ、後に七ヶ浜村となった。浦戸諸島の各島浜(桂島・石浜・寒風沢浜・野々島)については1884年(明治17年)に塩竈村と連合村を形成し、塩竈村外四箇島戸長役場が設置されていた[5]。 1889年(明治22年)に施行される町村制に際し、宮城県知事の松平正直は県内の郡長に新町村の設置事務を指示した。現在の塩竈市域を管轄していた宮城郡長の十文字信介は町村分合の調査を実施した[6]。その結果、塩竈村は単独で町制を施行し、桂島・石浜・寒風沢浜・野々島については、十文字の計らいもあって連合村だった塩竈村から分離し、浦戸村として独立した一村を形成した[2]。 市域の変遷成立以降、多賀城村や七ヶ浜村の一部、浦戸村の全域を編入しており、利府町との境界変更により、市域に変更が生じている。市域の変遷は以下の通りである[7]。
町村制前後の町・字町村制以前宮城県各村字調書によると、町村制施行以前の各村の字名は以下の通りである[10]。
塩竈町塩竈町は、1889年(明治22年)4月1日の町村制施行時に、「明治22年宮城県令第8号」の規定に基づき、従来の塩竈村にあたる区域を以て発足した。塩竈町の区域については、大字を設けずに39の小字を設置した。設置された小字は以下の通りある[1][2]。なお、小字の前につく「字」は省略してある。
浦戸村塩竈町成立と同日、町村制施行に伴い桂島・石浜・寒風沢浜・野々島が浦戸村として村制施行した。明治22年宮城県令第8号の規定による大字は以下の通りである[3]。なお、大字の前につく「大字」は省略してある。
町村制施行から1950年まで塩釜港埋立地の編入多賀城村・七ヶ浜村の一部の編入塩釜港の埋立地の帰属については、塩竈町と多賀城村との間で長い間未定となっていた。範囲は港橋からかつて塩竈線の塩竈港駅があった中埠頭の一帯、砂押貞山運河以東(現在の貞山通付近)であり、全域を新たに塩竈町とするには埋立によって生じた所属未定地の編入と、多賀城村に既に属していた地域の境界変更手続きを必要とした。この帰属問題は「築港地行政区域変更問題」と呼ばれ、塩竈町側が理由を明確にしないまま多賀城村と交渉を行い、多賀城村側が納得しなかったことで事態を紛糾させた[11]。 1938年(昭和13年)4月、塩竈町長の佐浦重次郎は問題の解決案を町会議員だった板宮文蔵に委嘱し、同年4月10日付で「塩竈築港地内多賀城境界変更並びに塩竈築港埋立所属未定地区編入に関する件申入」を多賀城村長の小野清吉に宛てた。これは新聞上にも発表され、世論喚起や宮城県による斡旋の一助となった。これらを背景に両者の間で交渉が開始され、多賀城村は1万5,000円の補償金が支払われることを条件として築港地の塩竈町編入に合意した[11]。 同年8月5日、宮城県知事の菊山嘉男は塩竈町会に対して次の2件の諮問を求めた。 この2件について8月9日に行われた町会で議論が交わされ、特に牛生地区の住民に関しては塩竈町編入を請願していることも取り上げられた。議論の結果、2件とも異議がなく、知事宛てに答申を行った。七ヶ浜村との境界変更については円満に解決され、七ヶ浜村長の鎌田作右衛門へ感謝状が贈られた[11]。8月27日、昭和13年宮城県告示第622号によって編入が告示され、9月1日に施行された[8]。
海面埋立地の編入1938年(昭和13年)9月1日、菊山知事は塩竈町会に対して次の件を諮問した。
同年9月10日に行われた町会で上記の件を議論し、すべて異議なしとして答申した[11]。その後、同年9月16日に編入された[12]。 なお、2は築港の対岸にある藤倉地区の内務省関連施設の所在地である。1・3・4はいわゆる「築港地行政区域変更問題」で塩竈町が編入を目標としていた築港埋立地の残部であり、これによってようやく全域が塩竈町に編入されることとなった[11]。
浦戸村の編入による改称浦戸村の編入計画については戦時中より存在し、1947年(昭和22年)9月に開かれた浦戸村の協議会においては全面的に即時合併することが表明されたが、その後は停滞状態となっていた。多賀城村牛生地区の編入後、市長の桜井辰治は浦戸村との合併問題に注力し、合併交渉は1949年(昭和24年)9月に再開された[13]。その後、翌年3月27日には宮城県議会で編入案が可決となり、3月31日にはそれぞれの議会において合併事項の議決を行った。ここでは浦戸村民の要望であった従来の大字名に「浦戸」を冠することも決まり、1950年(昭和25年)4月1日、浦戸村の塩竈市編入と同時に全大字が改称された[14]。
1950年から1968年まで尾島町などの町名変更1961年(昭和36年)4月1日、塩竈市の一部で町名変更が行われ、字中新田・字稲戸町・字東町・字町・字土城入・字尾島町・字尾島仲町・字尾島元町の一部を以て旭町が[15]、字町・字尾島・字尾島元町・字尾島仲町・字尾島大町・字中新田町・字中新田の一部を以て尾島町が[16]、字西沢・土城入・辰ノ口の一部を以て佐浦町が[16]、字赤浜・字土城入・字花立の一部を以て錦町が[17]、字花立・字赤浜・字中新田・字二又の一部を以て花立町が[17]、字南町・字船戸町・字小山・字土城入・字辰ノ口の一部を以て南町が新設された[17]。
中心部の住居表示1963年(昭和38年)5月1日、塩竈市の中心部で住居表示が実施され、字長沢・字小松崎・字庚塚の一部を以て梅の宮が、字長沢の一部を以て長沢町が、字長沢の一部を以て今宮町が、字小松崎・字長沢・字台の一部を以て小松崎が、字山ノ寺の一部を以てみのが丘が、字門前・字山ノ寺・字台の一部を以て宮町が、字町・字江尻の一部と南町・舟戸町・本町の全部を以て本町が、字町・字泉沢・字江尻の一部を以て西町が、字一ノ沢・字権現堂・字江尻の一部を以て赤坂が、字江尻・字小山の一部を以て泉ケ岡が、字石堂・字小山・字漆沢・字作田・東玉川町・白萩町の一部を以て石堂が、東玉川町・字野田・字漆沢・字石堂の一部を以て東玉川町が、白萩町・字作田・字野田の一部を以て白萩町が、字西沢の全部と字赤浜・字辰の口の一部を以て桜ケ丘が、字千賀ノ浦の全部と字町・字尾島・字門前の一部を以て海岸通が、字港・字尾島の一部を以て港町(一丁目・二丁目)が、字中ノ島の一部を以て中の島が、字泉沢の一部を以て栄町がそれぞれ新設された。なお、自治省による告示は1965年(昭和40年)6月15日付で行われた[18]。 同日、町名変更によって字藤倉・字台・字杉ノ入の一部を以て藤倉(一丁目 - 三丁目)が新設された[17]。
西部などの住居表示・町名変更1964年(昭和39年)5月1日、塩竈市西部と貞山通で住居表示が実施され、字権現堂・字泉沢・字大日向の一部を以て月見ケ丘が、字権現堂・字泉沢の一部を以て権現堂が、字一ノ沢・字母子沢の一部を以て白菊町が、字母子沢の一部を以て西玉川町が、字石堂・字袖野田・字野田・字漆沢・字母子沢の一部を以て玉川(一丁目 - 三丁目)が、字大日向・字権現堂の一部を以て向ケ丘が、字野田の一部を以て野田が、字赤浜の全部と字野田の一部を以て南錦町が、大字笠神字一本松・字端島・字天神・字牛生の一部を以て貞山通(一丁目 - 三丁目)が新設された。また、字一ノ沢の一部が赤坂に編入された。なお、自治省による告示は1965年(昭和40年)6月15日付で行われた[18]。
北浜の町名変更1965年(昭和40年)5月1日、塩竈市の一部で町名変更が行われ、字門前・字台・字藤倉・字杉ノ入表の一部を以て北浜が[16]、新浜町・字杉ノ入の一部を以て新浜町(一丁目 - 三丁目)が[19]、。 香津町の町名変更1966年(昭和41年)5月1日、塩竈市の一部で町名変更が行われ、字神ノ前・字辰ノ口・字白萩・字香津・字作田の一部を以て香津町が新設された[16]。 海岸通の住居表示1971年(昭和46年)5月1日、海岸通の一部で住居表示が実施された。なお、自治省による告示は同年7月9日付で行われた[20]。 新浜町の住居表示1975年(昭和50年)5月1日、新浜町(一丁目 - 三丁目)で住居表示が実施されたほか、杉ノ入裏の一部が新浜町二丁目に編入された。なお、自治省による告示は同年7月5日付で行われた[21]。
松陽台・楓町の住居表示1979年(昭和54年)5月1日、塩竈市北部で住居表示が実施され、字越の浦・字庚塚・字藤倉・藤倉二丁目・梅の宮の一部を以て松陽台(一丁目 - 三丁目)が、字越の浦の一部を以て楓町(一丁目 - 三丁目)が新設された。なお、自治省による告示は同年6月14日付で行われた[22]。
牛生地区の住居表示1981年(昭和56年)5月1日、塩竈市南部の牛生地区(旧多賀城村)を中心とした地域で住居表示が実施され、字中新田・字中ノ島・字二又・大字笠神字天神・字天満崎・字一本松を以て舟入(一丁目・二丁目)が、大字笠神字牛生・字牛生前・字天満崎の一部を以て牛生町が、大字笠神字葦畔・字大木戸・字牛生・字牛生前の一部を以て芦畔町が、字二又の一部を以て新富町が新設された。なお、自治省による告示は同年6月15日付で行われた[23]。
大日向町・母子沢町・袖野田町の住居表示1982年(昭和57年)5月1日、塩竈市西部で住居表示が実施され、字大日向の全域を以て大日向町が、字母子沢の全域を以て母子沢町が、字袖野田の全域を以て袖野田町が新設された。なお、自治省による告示は同年6月11日付で行われた[24]。
泉沢地区の住居表示1983年(昭和58年)5月1日、泉沢地区周辺で住居表示が実施され、字後楽・字泉沢の一部を以て後楽町が、字泉沢の一部を以て泉沢町が、字山ノ寺・字一森山・字泉沢の一部を以て一森山が新設された。また、清水沢(二丁目)が字泉沢の一部を編入した。なお、自治省による告示は同年5月23日付で行われた[25]。
杉ノ入地区の住居表示1984年(昭和59年)5月1日、杉ノ入地区周辺で住居表示が実施され、字杉ノ入表・字杉ノ入裏・藤倉三丁目・新浜町二丁目・字越ノ浦の一部を以て杉の入(一丁目 - 四丁目)が、字越ノ浦の一部を以て越の浦(一丁目 - 二丁目)が、字越ノ浦・字石田、字庚塚の一部をもって青葉ケ丘が新設された。また、楓町(一丁目・三丁目)が字杉ノ入裏・字越ノ浦の一部を、藤倉(三丁目)が字杉ノ入表の一部を、松陽台(一丁目)が字越ノ浦・字庚塚の一部をそれぞれ編入した。なお、自治省による告示は同年6月4日付で行われた[26]。
千賀の台地区の住居表示1995年(平成7年)5月1日、千賀の台で住居表示が実施され、字伊保石の一部を以て千賀の台(一丁目 - 三丁目)が新設された。なお、自治省による告示は同年8月22日付で行われた[12]。
脚注注釈出典
参考文献書籍
官報
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