出雲広貞
出雲 広貞(いずも の ひろさだ、生没年不詳[1])は、平安時代初期の貴族・医師。姓は連のち宿禰、朝臣。侍医・出雲嶋成の子。官位は正五位下・信濃権守。 経歴摂津国出身[2]。延暦23年(804年)の年末から病に伏していた桓武天皇に対して、昼夜怠らず治療にあたった功労により、翌延暦24年(805年)正月に正六位上から外従五位下に昇叙される。同年11月左京に貫附される。 平城朝では、中内記・典薬助・侍医を務めると共に、美作権掾・但馬権掾と近国の国司を兼ねた。また、平城天皇の命を受けて衛門佐・安倍真直と共に各地方・諸家に伝わる調薬の方法を編纂し、大同3年(808年)に日本初の医薬書となる『大同類聚方』として撰上している[3]。 嵯峨朝でも引き続き侍医を務める傍ら、弘仁2年(811年)に内薬正を兼ね、のち信濃権守も務めた。またこの間に、大同5年(810年)従五位下、弘仁11年(816年)従五位上、弘仁13年(818年)正五位下と昇進し、弘仁3年(812年)には宿禰姓に改姓している。 医書『難経開委』を著したとされるが、散逸して現存しない。 官歴『日本後紀』による。
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