内山真龍
内山 真龍(うちやま またつ、1740年1月29日(元文5年1月1日)- 1821年9月18日(文政4年8月22日))は、江戸時代中期から後期の国学者である。初名は市六後に龍麿。通称は彌兵衛、徳右衛門。号は龍洞等。本姓は藤原。 経歴商人の内山美真の長男として遠江の豊田郡大谷村(現在の静岡県浜松市天竜区)に生まれる[1]。家業を継いだ後の1760年(宝暦10年)に転居し、1762年(宝暦12年)11月に賀茂真淵・渡辺蒙庵・田中道麿の門人となった[2]。 1996年11月、故郷の浜松市で真龍の資料館が創設された[1]。 業績真淵からは和歌や『日本書紀』といった古文学や蒙庵からは儒学を学び、後に本居宣長と協力して遠江における国学の基礎を築いた。真龍の学問の特徴は、実地踏査を主とした実証的実利的なところにあり、『出雲風土記解』『遠江国風土記伝』『日本紀類聚解』などの著述を残した[1]。『日本紀類聚解』は光格天皇の天覧を得て絶賛された[1]。その後、『風土記』の研究のために全国を訪れ、多くの儒学者や詩人等と親交を持った。また、同時期に多くの国学者を輩出し、遠江国学の発展に尽くした[1]。 主な弟子主な著作物主著その他の著書脚注出典
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