公孫脩

公孫 脩(こうそん しゅう、生年不詳 - 238年)は、中国三国時代の武将。公孫淵の子。幽州遼東郡の人。「公孫修」とも呼ばれる。

経歴

父にへの謀反を勧めた。238年、燕王を称した父に従い魏と戦うが敗れる。父は魏の司馬懿に和議を申し立てるが断られ、父子ともに逃走するところを捕らえられた。最後は父と向かい合った状態で首を刎ねられている。その首は父の首とともに洛陽に届けられて、伯父の公孫晃父子の処刑が決定的になった[1]

脚注

  1. ^ ウィキソース出典 魏書·二公孫陶四張傳 (中国語), 三國志/卷08#公孫淵, ウィキソースより閲覧。  - 壬午,淵眾潰,與其子脩將數百騎突圍東南走,大兵急擊之,當流星所墜處,斬淵父子。城破,斬相國以下首級以千數,傳淵首洛陽,