八鹿高校事件

刑事裁判の経過
月日 事柄
1974年 9月8日-9月9日 元津事件発生。
10月20日-10月26日 橋本哲朗宅・木下元二議員包囲事件発生。
10月25日 生野駅・南真弓公民館事件発生。
10月26日 新井駅事件・青倉駅前事件発生。
10月27日 大藪公会堂事件発生。
11月22日 八鹿高校事件発生。
12月2日 主犯丸尾良昭が他の部落解放同盟員3名と共に兵庫県警に逮捕される(第一次逮捕)[1][2]。このとき出動した警察官の数は5000人にのぼり、あさま山荘事件における警察の動員数1200人を遥かに超えていた[3]
12月12日 Oら7名の部落解放同盟員が逮捕される(第二次逮捕)[2]。このとき出動した警察官の数は2000人[4]
12月24日 主犯丸尾良昭ら部落解放同盟員2名が逮捕監禁・強要・傷害罪で神戸地検に起訴される[5]
12月27日 主犯丸尾良昭が保釈される[2]
12月31日 8名が追加起訴される(一連の暴力事件で起訴された部落解放同盟員の数は延べ26名、実人数14名であった)[6]
1975年 1月22日 Sら7名の部落解放同盟員が逮捕される(第三次逮捕)[7]。丸尾ら再逮捕者3名を含む[7]
5月30日 神戸地裁で初公判が開かれる[8]
1983年 12月14日 神戸地裁で被告人13名全員に懲役3年(執行猶予4年)から懲役6月(執行猶予2年)の有罪判決。
1988年 3月29日 大阪高裁が検事・被告人双方の控訴を棄却。
1990年 11月28日 最高裁第一小法廷(裁判長・角田禮次郎)が被告人の上告を棄却[9]。被告人全員の執行猶予付き有罪判決が確定[9]
民事裁判の経過
月日 事柄
1975年 7月21日 神戸地裁豊岡支部で、八鹿高校教職員たち61名による民事裁判が始まる。被告は八鹿高校事件主犯の丸尾良昭(部落解放同盟兵庫県連沢支部長、八鹿高校差別教育糾弾闘争共闘会議議長=当時)やY(部落解放同盟南但支部連絡協議会会長=当時)・兵庫県(代表・坂井時忠知事)・八鹿高校校長ら10名。損害賠償請求額は1億4465万円[10]
1982年 3月31日 神戸地裁豊岡支部で、原告たちと、分離前の相被告兵庫県との間で和解が成立。同年4月10日、原告たちは兵庫県から慰謝料・弁護士費用・見舞金の名目で5円から355万1066円まで[11] 合計約5700万円[12]の金員を受領し、その損害額に補填した[13]
1990年 3月28日 神戸地裁豊岡支部で部落解放同盟の被告丸尾良昭とYが敗訴。主犯丸尾良昭ならびにYは、原告61名中57名に対し、賠償金総額2987万9577円と、事件後約15年の年5分の割合による遅延利息を支払えと命じる内容[14]。裁判所は「事件の発生につき、原告ら(八鹿高校教職員)の側に非難さるべき落度は認められない」と認定し、被告による正当行為、過失相殺の主張をいずれも退けた[15]。ただし「仮執行の宣言は相当でないからこれを付さないこととする」とした[16]
1992年 7月24日 大阪高裁が被告の控訴を棄却[17]
1996年 2月8日 最高裁第一小法廷(裁判長・井嶋一友)が部落解放同盟の主張を「独自の見解」で「採用することができない」と退け、5人の裁判官の全員一致で上告を棄却[18][19]
事件が発生した兵庫県養父郡八鹿町(現・養父市)の位置
事件が発生した八鹿地区周辺の空中写真。
1976年撮影の2枚を合成作成。国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成。
事件現場となった兵庫県立八鹿高等学校
事件で最も激しい暴力を受け、瀕死の重傷を負った被害者。入院109日間の加療を余儀なくされた。

八鹿高校事件(ようかこうこうじけん)は、1974年(昭和49年)11月22日兵庫県立八鹿高等学校で発生した、部落解放同盟の同盟員が集団下校中の教職員約60名を学校に連れ戻し、約13時間にわたって監禁暴行[20]、教師48名が負傷、内29名が重傷、1名が重体となった事件である。略称は八高事件(はちこうじけん)。

概略

公立高校内に、既に部落問題研究会があるにも関わらず、部落解放同盟を支持する生徒が部落解放研究会を設立しようとした。教師側はこれを拒否したため、話し合いを求めてハンガー・ストライキに入った生徒の支援に訪れた部落解放同盟員らが暴力的衝突を起こした事件[21]

裁判調書に基づく内容

刑事裁判では部落解放同盟の被告人13名が拉致・監禁(致傷)・強要・傷害の罪で起訴され、全員の有罪が確定した。民事裁判は3000万円の損害賠償判決で決着したが[22] 糾弾に荷担した兵庫県と県教育委員会は被害者全員に謝罪し慰謝料を支払った。解放同盟兵庫県連も21年間の遅延利息を含む慰謝料全額の賠償に応じたが、判決については「差別弾圧判決」であると非難し、現在も自らの非を認めていない[23]

但馬地方ではこの事件以前から部落解放同盟の運動に従わせるために自治体や学校、そして部落解放同盟の過激な運動に反対する日本共産党組織を含む勢力への糾弾・暴力・襲撃事件が起きており[24]、一連の関係事件8件、被害者200名として延べ26名(実人数14名)[25]の解放同盟員が起訴された。それらを総称して、八鹿・朝来事件八鹿・朝来暴力事件と呼ぶこともある。

部落解放同盟の立場からは八鹿差別事件八鹿高校差別事件八鹿高校差別教育事件[26] などと呼び、この事件の裁判を「差別裁判」[14]「八鹿高校差別裁判」と呼ぶ[27][28]

事件当時、中華人民共和国では文化大革命が進行中であり、八鹿高校事件における部落解放同盟員や解放研生徒らの暴力行為は「文化大革命の紅衛兵」になぞらえられることもある[29]

経過概略

但馬地方では、部落解放同盟支部が昭和48年(1973年)に結成され、差別糾弾闘争と行政闘争が活発化した。一方、それを批判する動きも現れた。

そのような状況下の昭和49年(1974年)1月、同和地区在住の八鹿高校女子生徒Nと交際をしていた男性の父親YH(兵庫県幹部職員)が「あの部落に出入りしていたら、お父さん、お母さんはT地区の中でも人に気がねしなければならない。Nさんを諦めてほしい。同和行政は口でこそ言っているが、本物ではなく、部落の人同士の結婚を前提として行われているにすぎない」といった手紙を長男に送っていた事実が、長男により明らかにされた[30](いわゆるYH結婚差別事件。なお、この事件に際しては、部落解放同盟兵庫県連合会が糾弾闘争費として行政に3000万円を要求し、1500万円の支給を受けた[31])。この出来事が結婚差別事件として問題になり、それと前後して但馬地方の別の高校でも、女生徒が同じ理由で失恋し家出後に奈良で凍死するという事件(「生野女子生徒自殺事件」)が発生した。

こうした事件の発生を受け、昭和49年(1974年)5月、八鹿高校の部落出身生徒らが日本社会党(現・社会民主党)系統・部落解放同盟系統の部落解放研究会(以下、「解放研」と書くことがある)の設置を高校に申請。この解放研とは、生徒の自主的な要求で運営されるものではなく、また教師の指導のもとに運営されるものでもなく、第一に部落解放同盟の指導を受け、確認・糾弾の行動隊として運営される組織であって、そのことは部落解放同盟の昭和49年度(1974年度)運動方針にも明記されていた[32]

したがって当初、校長と教頭は職員会議の決定に基づき解放研の設置を認可しなかったが、主犯丸尾良昭を含む部落解放同盟員らや解放研生徒らにより長時間の糾弾を受け、心身ともに限界に達する状況の中で、職員会議の決定を無視して解放研の設置に認可を与えた[33]。しかし八鹿高校には既に生徒自治会と職員会議で認められた部落問題研究会(共産党系の組織)が存在しており[注釈 1][36]、一般教員は部落解放研究会の設置を認めなかった。部落解放同盟は、こうした一般教員の対応を差別として批判した。なお、当時八鹿高校普通科1年生だった解放研メンバーの女性によると、「解放研も3分の1くらいは一般地区の生徒でした」[37] という。

11月18日朝には八鹿町内にいわゆる解放車が入り、八鹿高校糾弾を叫んだり解放歌を流したりするようになり、八鹿高校の正門前では部落解放同盟員らが八鹿高校教職員に対する非難のビラを配っていた[38]。不穏な空気を察知した教職員たちは、11月20日から集団で城崎の民宿に宿泊し、自衛のために個人行動を避け、集団で登校するようになった[39]

11月21日、教職員たちは城崎で対策会議を開き、その結果「部落解放同盟による動員状況から22日に糾弾が起きることは必至」と判断[40]。しかし22日当日の行動については意見の一致を見ず、一応登校するだけはして、その後の判断は同和教育室主任に一任することとした[40]

11月22日朝、教職員たちが集団登校すると、2台の解放車にぴったり付きまとわれ「この教師たちの笑顔はいつまで続くんでしょうか」などと意味深な放送をされた[40]。このとき、ビラを配っていた部落解放同盟員が教師と揉めた際、他の部落解放同盟員が割り込んで「今は行かしたれ」と仲間を制止したり、別の部落解放同盟員から「お前ら、今日は楽にしたるわな」と脅されたりし、リンチを予測させる異様な雰囲気が漂っていた[40]

教職員たちが八鹿高校内に到着すると、校内にはゼッケン鉢巻をした部落解放同盟員10数名が入り込み、校庭には糾弾集会用の投光器が据えつけられ、糾弾会の準備が整っていた[40]。このため、同和教育室主任の提案でただちに職員会議が開かれ、22日の授業は中止して教職員全員で集団下校することが決まった[40]。午前9時40分から45分頃のことである[40]

それに対し、解放同盟や兵庫県教組本部などによって結成されていた八鹿高校差別教育糾弾共闘会議側は、ピケット・ライン(ピケ)を張って制止した。共闘会議側は、教師らを暴力で校内に連れ戻し[注釈 2]、体育館などで「糾弾会」として自己批判書を書かせる事態に発展した。このとき、教師側に負傷者が出た。体育館や解放研部室などでは自己批判書を書くまで以下のような状況が繰りひろげられた。


「解放研部室内で、右構成員らは、教諭らをそれぞれ数名で取り囲み、殴打、足げにし、首を絞めつけ、バケツの汚水を浴びせ、牛乳や飲み残しの茶を首筋に注ぎ、南京錠で頭部を殴打し、足を踏みつけ、煙草の火を顔面に押しつけるなどし、「殺してやる」、「二階の窓から落としてやる」などと脅迫して自己批判書等の作成を強要した。」(『八鹿・朝来暴力事件 検察官論告要旨』より)


下校していた解放研以外の生徒たちは部落解放同盟と解放研生徒らによる糾弾暴行事件発生を伝え救出を求める「町内デモ」を決行、暴行を受ける教師たちの救出を訴えた。この事件で部落解放同盟側が採った糾弾の様式は「インディアン方式」と称するもので、ターゲットの周りに糾弾者たちが環を作り、ぐるぐる回り、拡声器を被糾弾者の耳元に寄せて罵声を浴びせるというものである[42]。被害教師全員が約12時間45分にわたる監禁ののち解放されたのは、午後10時45分頃のことであった[43]

事件後、日本共産党支持・不支持を超えて生徒を先頭に部落解放同盟に対する18,000人参加という大規模な町民抗議集会が行われ、大半の町民も集会に参加して教職員側を支持。

部落解放同盟員らが多数逮捕され、但馬地方での一連の襲撃事件、すなわち

  1. 元津事件 - 1974年9月9日、部落解放同盟員40人〜50人が[44] 兵庫県朝来郡朝来町の路上で兵庫県教職員組合朝来支部長の橋本哲朗など部落解放同盟に批判的な10名を取り囲み、約10時間にわたり「割り木で殴り殺したろか」[45]「大根みたいに切り刻んでやろか」[45]「差別者、糾弾する」「ビラ撒いたやろ」「1日で済む思ったら大間違いだ。1週間でも10日でもやってやる」などと怒号し、なおかつ左足を踏みつける・足を蹴る・小突くなどの暴力をふるい[45]、同人らを不法に監禁した事件[46]。事件後も橋本には耳鳴り難聴などの障害が残った[47]
  2. 橋本哲朗宅・木下元二議員包囲事件 - 部落解放同盟員らは1974年10月20日から朝来町の橋本哲朗宅の近所にテントを張り、「橋本哲朗糾弾闘争本部」の看板を掲げて「お前を殺して部落が解放されるんだ」などとマイクでアジテーションを行っていたが[48]10月22日になるとさらにエスカレートし、10月26日まで最盛時は連日500名〜2000名で[49] 橋本宅を取り囲み、ハンドマイクや肉声で「橋本糾弾」「橋本出て来い」「お前は完全に包囲されている。今すぐ出てきなさい。わしらを怒らせたら怖いぞ」「子供が可愛くないのか」「最後の最後まで闘うぞ」などと怒号し、橋本を不法に監禁。また、10月22日、橋本宅を訪れた木下元二(衆院議員、日本共産党)たちが自動車で退出しようとしたのを認めるや、部落解放同盟員らがこの自動車後方の溝蓋の上に寝転び「お前たちが車をバックさせたら殺人者として法廷に出んならんことは明らかだ。お前たちの車がちょっとでも動いてみろ、殺人者だ」などと怒号し、この自動車の発進を不可能ならしめ、木下らを橋本宅に引きこもることを余儀なくさせた上、橋本宅を多数の部落解放同盟員で取り囲み、マイクで「差別者集団日本共産党宮本一派よ、お前たちは階級の裏切り者、階級の敵である」などと怒号し、「日本共産党糾弾」「部落解放同盟は闘うぞ」「最後の最後まで闘うぞ」などとシュプレヒコールを繰り返し、約4時間30分にわたり同人たちを不法に監禁した事件[46]。監禁中、橋本一家は朝から戸や窓を閉め切り、カーテンを引き、夜も電灯を消して屋内を暗くする生活を余儀なくされ、家族全員が不眠症となり、事件後もPTSDで心身の健康を害したと認定された[50]
  3. 生野駅・南真弓公民館事件 - 部落解放同盟員らが昭和49年(1974年10月25日、兵庫県朝来郡生野町の国鉄播但線生野駅ホームにて、民青同盟員たち20名を取り囲み、頭・顔・腕などを殴打し、首や背中を蹴り、髪の毛を引っ張り、付近のマイクロバスに拉致し、南真弓公民館に連れ込んで不法に監禁し、約4時間30分にわたり再び顔面や背中に殴る蹴るの暴行を加え、毛髪を引っ張り、タバコの火を手に押しつけ、ハンドマイクを耳元に当てて「なんで(部落解放同盟を批判する)ビラを配ったか」「リーダーは誰だ」などと怒号し、加療5日から2週間の傷害を負わせた事件[51][52]
  4. 新井駅事件 - 部落解放同盟員らが昭和49年(1974年10月26日、国鉄播但線新井駅前付近にて、35歳と33歳の男性の顔面を殴打し、頭部を角材で殴打し、また胸部や大腿部を蹴るなどの暴行を加え、骨折や頭部裂創などの傷害を負わせた事件[51]
  5. 青倉駅前事件 - 部落解放同盟員らが昭和49年(1974年10月26日、国鉄播但線青倉駅前付近にて、35歳の男性など4名の顔面を手拳で殴打し、足で大腿部を蹴り、加療1週間から3週間の傷害を負わせた事件[51]
  6. 大藪公会堂事件 - 部落解放同盟員らが昭和49年(1974年10月27日、25歳の男性ならびにその47歳の父親に対し集団暴行を加え、顔面や胸部などを手拳や平手で殴打し、腹部や脚部や腰部を足蹴りした事件[51]

と一括した形で起訴された。また、部落解放同盟員以外にも、八鹿高校校長や八鹿警察署署長や兵庫県教育委員会同和教育指導室主任社会教育主事らが逮捕監禁・強要罪などの容疑で送検され、うち校長や同和教育指導室主任についてはそれぞれの罪が認められながらも[注釈 3]、神戸地検の判断で起訴猶予となった[10]。署長については容疑不十分で不起訴処分となった。これらを含め、本事件における不起訴者は177名に及ぶ[10]。被害規模の大きさに比べて起訴された者が少なかったのは、集団暴力事件の特異性により、3名以上の被害者から犯行が特定された者に限って起訴されたためである[25]

刑事裁判では一審、二審とも、一連の事件の背後には部落解放同盟と日本共産党の対立があり、解放研を認めなかった対応について教職員らの対応はいかにも性急で差別的と見られる余地があり、不適切な対応であると指摘されたものの、

「本件糾弾の手段、方法は社会的に相当と認めれる(ママ)程度を明らかに超えており、また法益侵害の程度も重大であって、法秩序全体の見地からすると、逮捕監禁罪、強要罪の可罰的違法性を阻却するとは到底いいがたい。 すなわち、本件の逮捕監禁罪、強要罪の手段、方法は、判示のとおり、立脇履物店前に座りこんだ47名の八鹿高校教諭らに対し、白昼公道上で多数の者が殴る、けるなどの激しい暴行を加え、その手足を持って引きずるなどした後トラックまたはマイクロバスに乗せ、あるいは両腕をとって連行するなどしたもので(有形力の行使が、弁護人の主張のごときスクラムをはずす、腕をとるという程度でなかったことは、前認定のとおりである。)、いわば公衆の面前で一方的に被害者らに暴力を振るうとともにその自由を拘束したと評され、300メートル離れた八鹿高校第二体育館に連れこんだ後も同所や会議室、解放研部室などに多数の包囲と威圧ないし看視でもって監禁し、負傷のため入院の必要があると認められた者以外はきわめて長時間(被害者のうち、23名はいわゆる総括糾弾会終了まで約12時間30分)にわたって同校から自由に脱出できない状態にしたうえ、その間も多数の者が言葉によるきびしい糾弾に加えて41名の被害者に対してはさらに判示のとおり、第二体育館など各所において、殴る、ける、冷水をあびせるなどの大規模で執拗な暴行を加えて自己批判を迫ったというものであって(有形力の行使が、弁護人主張のごとき机をたたくという程度でなかったことは前認定のとおりである。)、糾弾のためとしても社会的に相当と認められる程度を明らかに超えている。このような手段、方法が真にやむをえないとは到底いいがたいことは明らかである。これにより多数の被害者が長時間にわたって行動の自由を侵害され、またその意に反した文書の作成を余儀なくされるとともに、前記一連の暴行によって43名の多きにのぼる被害者が相当期間の加療(入院加療を含む)を要する傷害を負ったもの(最長の加療期間を要する者は、骨折をともなう傷害で当初診断の加療期間が2か月である)であって、被害者らに与えた精神的、肉体的影響は甚大であり、法益侵害の程度も重大であるとの評価を免れがたい」(神戸地裁における刑事判決より)[54]

と判断し、被告全員に執行猶予付き有罪判決を下し、昭和63年(1988年3月29日、大阪高裁も原審を支持した。平成2年(1990年11月28日、最高裁の上告棄却により部落解放同盟のメンバー13名の有罪が確定。その内訳は

  1. 被告人1(部落解放同盟兵庫県連合会沢支部支部長) - 懲役3年、執行猶予4年(罪名は逮捕監禁致傷・傷害・強要[1]
  2. 同2(部落解放同盟兵庫県連合会南但地区支部連絡協議会青年部副部長) - 懲役2年、執行猶予3年
  3. 同3 - 懲役2年、執行猶予3年
  4. 同4(部落解放同盟兵庫県連合会南但地区支部連絡協議会青年部長、青年行動隊長) - 懲役2年、執行猶予3年
  5. 同5(部落解放同盟兵庫県連合会薮崎支部支部長) - 懲役2年、執行猶予3年
  6. 同6(部落解放同盟兵庫県連合会南真弓支部副支部長) - 懲役1年6月、執行猶予3年
  7. 同7 - 懲役1年、執行猶予3年
  8. 同8 - 懲役1年、執行猶予3年
  9. 同9 - 懲役1年、執行猶予3年
  10. 同10 - 懲役10月、執行猶予2年
  11. 同11 - 懲役10月、執行猶予2年
  12. 同12 - 懲役8月、執行猶予2年
  13. 同13(部落解放同盟兵庫県連合会薮崎支部書記長) - 懲役6月、執行猶予2年

というものであった[55]。この他、部落解放同盟兵庫県連合会南但地区支部連絡協議会青年部副部長と青年行動隊副隊長を兼ねる同盟員1名が公判中に死亡し、公訴棄却となっている[56]

それに続く平成8年(1996年2月8日、暴行傷害犯人らに対する民事訴訟でも、総額約3000万円の損害賠償請求が最高裁で確定した。また兵庫県と県教委も八鹿高校事件での「原告全員に慰謝料を支払うという和解に応じて裁判は終結した。なお、この民事訴訟の第一審判決では、刑事訴訟の第二審判決における部落解放同盟寄りの判断、すなわち

「(ハンガーストライキをしている解放研生徒をそのまま校内に放置して集団下校したことについて)自校の生徒の立場を思いやるという教育的配慮に乏しく、教育者として適切さを欠く点があった」
「いかにも早急で思いきった態度であり、現にハンガーストライキをしている生徒やその父兄の心情を含め同校全体の教育的見地への配慮を十分かつ慎重に行ったうえのものであるかどうかについても大いに問題となる」

に対し、「解放研の性格と実態、解放研生徒の要求する『話合い』の内実等[注釈 4]を仔細に検討すれば、右の指摘が果して正鵠を射たものかどうか疑問なしとしないのである」と批判が加えられている[15]。すなわち、解放研の性質について重大な危険性を明確に認定し、なおかつ、解放研との話し合いの拒否について差別性がないことを認定し、さらに集団下校についても無理からぬ緊急避難と裁判所が公に認定したものである[35]

「八鹿闘争勝利記念碑」。表から撮影。


このように刑事民事ともに解放同盟側の非が認定されたにもかかわらず、平成22年(2010年)1月、主犯丸尾良昭が[37]「八鹿闘争勝利記念碑建立委員会」を名乗り、兵庫県朝来市に「八鹿闘争勝利記念碑」なる石碑を建立した[58]。碑の裏側には

1974年11月、八鹿高校の部落出身生徒は、差別なき社会実現の教育を求めて、教師に話し合いを申し入れた。教師はこれを拒否、生徒は抗議の断食に入った。南但馬の部落は命運をかけて、差別を糾弾、教師らを反省させ生徒の命を守った。権力の弾圧は峻烈を極めたが、14年の裁判の後1988年5月大阪高裁は教師の不当性、憲法の14条に根拠を置く糾弾闘争の正当性を判決した。

この八鹿闘争に結集した幾万人の闘いを尊び、記念碑は建立する。 よき日の為に

2010年1月 八鹿闘争勝利記念碑建立委員会

と、解放同盟の「勝利」を宣言する文章が刻まれている。しかしこの碑の「勝利」という文字は、真っ赤な文字でたびたび「敗北」といたずら書きされている[37]

「八鹿闘争勝利記念碑」。裏から撮影。

なお、争いのそもそもの焦点となった「解放教育」と「同和教育」は事件後に両方とも衰退し、部落解放同盟側の「解放研」は事件から3年ほどで廃部となり、生徒自治会と職員会議で認められた「部落研」[36]1979年頃に廃部となった[37]

マスコミ報道

本事件については、「暴力はなかった」と部落解放同盟中央本部、日教組本部、全同教(現・全人教=全国人権教育研究協議会)が談話・声明の類を発表し、日本社会党(現・社会民主党)の機関紙『社会新報』もそう報道した。ただし、部落解放同盟滋賀県連は独自に調査団を派遣した結果、暴力行為の事実を確認し、発表している[59]

三大紙では「朝日新聞」の報道が最も遅く、11月29日になってから初めて本事件を報じている。それも11月28日の参院法務委員会で日本共産党の内藤功議員の質問により、警察庁側が負傷者44人の存在を認めたためであった[60]。このことについて、朝日新聞記者の上丸洋一は次のように書いている。

「発生当時新聞は、この事件を兵庫県内の読者に向けて地方版に小さく報道しただけであった。なぜ社会面に書かなかったのか。事件から20年あまり経った95年、取材にあたった元新聞記者たちを訪ね歩き、話を聞いた。ある元部長は電話口でこう言った。『はっきりゆうたら逃げたんですよ。あまり関わりたくないという意識がありましたな』。ところが、その後じかに会ったとき、彼は『部落差別は深刻だ。被差別者の立場に立って…』と何かを警戒しているかのように、固い口調で繰り返した。その変わり様は不可解だった。別の元記者はこの事件の報道を再検討すること自体、けしからんことだ、といった口調だった。『部落解放のための糾弾を普通の暴力事件のように書けば、解放同盟が暴力集団のように見られてしまう懸念があった。だからできるだけ抑えた』と語る元支局部長もいた。 (中略)天声人語の筆者深代惇郎は、八鹿町を管轄する豊岡支局に電話をかけ、『なぜ、もっと書かないんだ』と若い支局員をしかったという。新聞は自らの主体的な判断で、事実は事実としてしかるべき紙面にきちんと書くべきだった。それが新聞の役割であり、書かないのは暴力の黙認に等しかった。いや、当時の記者にもその意識はあったに違いない。実際、多くの関係者が『いま思えば、もっと書くべきであった』と振り返った[61]

事件当時、朝日新聞大阪本社には「なぜ書かないか」という抗議の電話が20日間に約500件、多い時は朝から夜まで159件かかり、その凄まじさは朝日新聞社にとって前代未聞であったといわれる[62]。最終的に朝日新聞は八鹿高校事件を報じたものの、記事の内容は「すわりこんだ生徒(丸尾らが指導する「解放研」の生徒─引用者註)に、他の生徒から、ひどい差別言辞が浴びせられ、大きなショックをうけた」[63] など、部落解放同盟によるデマの垂れ流しであり、事件を実際に体験した地元住民からは朝田善之助にひっかけて「朝田新聞」と嘲笑されていた[64]

テレビでは、NHKが事件発生4日目に本事件を報道している[65]

1993年7月1日付『朝日新聞』は夕刊の連載「戦後50年メディアの検証」で八鹿高校事件を取り上げた[66]。それによると、朝日新聞社は部落解放同盟から何度か糾弾を受けたため自己規制に陥り、「批判的なことを書くなと言われたことがない」にもかかわらず事実を報道しなかった、という[66]。これに対して1995年7月、西岡幸利(兵庫県人権共闘会議代表委員)は『兵庫民報』で「朝日は解同の積極的な代弁者」であったと反論[66]。解同の暴力と対峙していた兵庫県高等学校教職員組合(兵高教組)執行部に対する転覆の動きを『朝日新聞』が編集委員の署名入りで公然と称揚していたことを指摘し、これは単に「事実を報道しなかった」域を越えている、と批判した[66]

1973年に日本新聞協会が新聞記者の意識を調査した結果によると、部落問題は45.5パーセントの新聞記者からタブー視されており、あらゆるタブーの首位を占めていた[67]

事件を積極的に報道しようとしなかった多くのマスメディアとは対照的に、八鹿高等学校生徒自治会は「八高11・22その日」第1集・第2集などを発行し、自らの力で部落解放同盟の暴力と非道を世に訴えた[68]

警察の対応

リンチ行為を当初傍観していた八鹿警察署(現・養父警察署)

本事件においては、地元警察が部落解放同盟による集団暴力行為を長らく傍観していたとの複数の指摘がなされている[69][70][注釈 5]。部落解放同盟員に拉致されそうになった教師が警官にしがみつくと、警官は教師を払い落とし「私には妻も子もある」と言い捨てたとの証言もある[72][73]。八鹿高校事件の現場に居合わせた安武洋子(参院議員・日本共産党)は

「警官がいる前で私は彼らに暴行を受けて、そして三十人余りに追われて八鹿警察まで逃げたんです。そして彼らは八鹿警察の前で喚声を上げているんです。私は署長室の戸をあけて、彼らを逮捕しなさいと、こう言いました。ところが、しばらくお待ちくださいと私を押し出して戸を締めました」[74]

と発言している。 このような警察の対応について、青柳盛雄(衆院議員・日本共産党)は

「警察の怠慢は、単に黙過するというようなものではなくて、むしろ、ほかの言葉で言えば、泳がす。こういう暴力分子を泳がして、そして暴れほうだいにする。なぜ泳がすのだと言えば、この暴力分子の敵視している、糾弾闘争の対象、リンチの対象にしている者は共産党員あるいはその同調者、いわゆる共産主義に対してはどのような迫害を加えても構わないという過去の思想、そういうものがあって、それに役立つものならばどんな人間でもひとつ使ってみよう、泳がしてみよう、こういうよからぬ考え方というものがあるのではなかろうか。だからこそ、ひきょうで怯懦であるがゆえに手心を加える。後のたたりが恐ろしいから手心を加える。そういうことばかりではなくて、思想的には解同のそういう人たちと共通のものはないかもしれないけれども、しかし反共という点ではまさに共通のものを持っている、こういうのが治安を害するのに協力加担しているのではないかと思うのです」[75]

と発言し、警察と部落解放同盟が反共主義の一点で結託していたのではないかと考えた。諫山博(衆参院議員・日本共産党)もまた「反共暴力集団に対して警察が泳がせ政策をとっているのではないか」「あるいは警察が暴力を恐れていたのか」と国会で追及したが、佐々淳行(警察庁警備局警備課長=当時)は「現場の種々の条件からいって現行犯逮捕を行うだけの十分な条件が現場になかった」「部隊が当日フォード大統領警備に従事をしておったために、その点配慮がおくれ、事件処理が遅くなった」と弁解した[76]。 一方、八鹿出身の小島徹三(衆院議員・自民党)は

「私の郷里の兵庫県の八鹿町というところでいわゆる八鹿高等学校事件というのが起きました。その際における犯人の検挙の様子を私は見ておりました。いかに被害者が協力しないか、また目撃者が協力しないかということで困難さがあるかということ、並びに私の郷里は田舎の町ですからして、警察力が弱い。そういう面におきまして、私は先ほど来の話を聞いておって、警察当局の苦心はよくわかるつもりです。それは今日の刑事訴訟法のもとで、そしてこの警察力で、しかも予算なんてものはアメリカあたりから比べたら十分の一程度の予算しかないというような状態の中において、これだけ努力されていることは、私はそう侮辱すべきものではない、かように考えております」「私は八鹿の事件を見ておりまして、目撃者が協力しないということは、後難を恐れるからであります。自分がもしも協力した場合において、後でいわゆるお礼参りとかなんとかされやしないかということを非常に恐れておるということであります」[77]

と発言し、警察を擁護した。

1974年11月24日には、八鹿警察署長が神戸地検検事正あてに告発を受けた。罪名は公務員職権濫用罪保護責任者遺棄致傷犯人隠避であった[76]。この告発は容疑不十分で不起訴処分となったが[10]、神戸検察審査会への不服申立ての結果、公務員職権濫用罪保護責任者遺棄致傷については1975年11月7日に不起訴不当の裁決が出た[74]。ただし検察はその後、再度不起訴処分を決定している[78]

警備課長として八鹿高校事件に関わった佐々淳行は、退官後の回想記の中でこの事件に触れている[79]。それによると、佐々自身は現場の無警察状態を速やかに断固排除すべしとの立場だったが、警察の中のハト派は日本共産党と部落解放同盟の対立を「ハブマングースの闘い」にたとえて「放っておけば互いに自壊する」と期待し、不介入方針を唱えていたという[79]。 当時の兵庫県知事坂井時忠は兵庫県警本部長出身で、兵庫県副知事の山口廣司も警察官僚出身であった。坂井は11月18日(八鹿高校事件の4日前)に八鹿高校「糾弾闘争本部」の現地を訪れて主犯丸尾良昭らと握手・激励し、八鹿高校事件の当日には山口廣司らも現地を訪れていることから、坂井や山口は部落解放同盟の蛮行の「およがせ政策」に与した者と位置付けられている[80][81]。山口も小中学校の校長会に出席し、部落解放同盟の糾弾に生徒を引率し動員するように要請したことがある。

このような関係から、選挙運動では坂井県政への批判的発言に対して丸尾派の青年行動隊が血相をかえて「坂井は味方だ、取り消せ!」と喚いて演壇に詰め寄ったこともある[82]。さらに、養父町の町長の朝倉宣征が部落解放同盟に反対する勢力を集めて「明るい養父町をつくる会」の準備集会を開くに際し、部落解放同盟からの襲撃を恐れて警察に会合場所の警備を依頼したところ、情報が部落解放同盟に筒抜けになっていたこともある[83]

最終的に、前警察庁長官の高橋幹夫の決断で、警察庁次長の土田國保が兵庫県警本部長の勝田俊男に烈しい口調で長官の指示を伝え、5500名の青ヘル全国管区機動隊が転進・投入された[79]。ヘルメットには北海道や岐阜や長崎など日本全国の所属県警名が白ペンキで書いてあり、部落解放同盟はそれがフォード大統領の警備の使い残しとは知らないので、警察庁が本気を出して全国動員をかけたものと受け取り、おとなしくなるだろうと佐々は読んでいた[79]。結果としてこの読みは当たり、部落解放同盟からは11名の逮捕者が出たが、日比谷公園ではこの逮捕に抗議する3万人規模の全国集会が開かれ、デモ隊が警察庁警視庁を包囲した[79]。それに対し、警視庁は機動隊2個隊800名を緊急配備してデモ隊の襲来に備えたところ、デモ隊は「時間がなくなった」と称して総理府と官邸にデモの目標を変更し、結果として紛争を事前に防ぐことができたという[79]。部落解放同盟の無法に見て見ぬふりを続けてきた各県警の姿勢は、これ以後次第に変わり始めたと佐々は記している[79]

政治的背景

当時、日本中に革新知事が誕生していた[84]。兵庫県政も保守から革新に代わりかけていた[84]。それに対して保守知事の坂井時忠が革新陣営の分断を図る意味で部落解放同盟の暴力を放置していた、との分析がある[84]

すなわち、日本社会党と日本共産党は同和問題に関して見解が合わなかった[84]。この点に注目した警察官僚出身の坂井知事が再選を狙って警察権力でマスコミ統制を行った、という見方である[84]

裁判での証言

八鹿高校事件刑事裁判の第12回公判(1977年5月6日)の証人として喚問された兵庫県豊岡警察署の巡査部長(当時八鹿警察署鑑識係巡査長)は、こう証言している。

出動の命令をうけ、証人(私服)はカメラを携帯して急行した。立脇履物店へ60メートルの所で車が動けなくなり、同僚2人を先におろし西村薬局駐車場に車をあずけて現場へ走った。前方では解放車の上で男が叫んでいた。証人は10時6、7分ごろ、人垣の後からカメラをさしあげて写真をとった。集団は大声をあげて西(高校の方)へと移動している。差別者、殺せ! と叫んでいた。緑色の服(行動隊ユニフォーム)やゼッケンから同盟員であることがわかった。前方から背広の先生がO巡査に助けられながら歩いてきた。顔面は血だらけでよろよろしている。「大変なことだ」と判断して集団のすぐ後に接近、2枚撮影した。フィルムがきれたので附近の店に入って装てんする。林マーケットの前を5、60名の者が一団となって西へ進んでいた。シャツを後にだした先生が、左右から腕をとられ、小突かれ、背後から押されて連行されている。この時、逆方向から走ってきた男が下腹部にこぶしを固めて一撃を加え、さらに往復ビンタをくらわし、膝をついたところを他の者が持ちあげて地面へ落とした。これはY教諭であることがあとでわかった。道の向こう側の同盟員に写真をとるところを見つけられ、「差別者がいるぞ!」「やっちまえ!」のかけ声で十数人に囲まれ、もみくちゃにされた。盗られると、とっさに感じてカメラをポケットに隠した。K署長らが「これは警察官だ!」と制止したので助かったが、しばらくは方向感覚を失った。林マーケットの西側角にくると、トラックが停車していて、数名の同盟員が上っていた。連行される先生が「イチ、ニイ、サーン」と荷台へ投げこまれた。[85]

部落解放同盟による民族差別

八鹿高校事件の被害者の中には朝鮮民族出身の教員がおり、部落解放同盟や解放研生徒からは「○○(教員の名)チョウー」と侮蔑的に呼ばれていた[86]。法廷で被害者側の弁護士の山内康雄が「それは民族差別ではないか」と質問すると、部落解放同盟は何も反論できなかった[86]

主犯丸尾良昭のプロフィール

田宮武「被差別部落の生活と闘い」(明石書店, 1986)p.223-259に主犯丸尾良昭のインタビューが収録されている。それによると、丸尾は1941年8月1日兵庫県朝来郡中川村(のち朝来町、現・朝来市)の被差別部落に生まれ、旧姓はY(起訴猶予になった解同南但支部協議会長と同姓)。兵庫県朝来郡の中川村立中川中学校(現・朝来市立朝来中学校)に在学中、「どこそこの部落の言葉は違う」という国語教師の発言を差別発言として糾弾し、解雇に追い込んだという。中学卒業後、尼崎の自動車整備工場に5年間在職。当時、職場の先輩と乱闘事件を起こし、腎臓を悪くして1年ほど入院していた。

5年目に家庭の事情で但馬に戻り、21歳から新日本運輸に修理工として12年間在職。このうち10年間は組合活動に従事し、新入社員の教育も任され、この経験が後に部落解放運動で役立ったという。当時は地元の部落民の、ギャンブル、飲酒、セックスに溺れる自堕落な暮らしぶりを見て嫌悪感を持ったといい「わたしはもう部落の人間は嫌いでしたな。わたし自身が嫌いやった」「当時は、村の中では異端児でした」と語っている。また、みずからが部落民であることを隠したまま、同僚との部落差別的な会話に乗り、みずから部落差別発言をすることもあったという。

1965年頃、豊岡の本社工場に勤務していた当時、朝来町新井の自転車屋で機械の部品を無料で分けてくれとせびり、代金を支払うよう求められて喧嘩になり、警察に通報され、現場に駆けつけた警官から「謝罪しなければ逮捕する」と言われたのでやむなく謝罪、しかし腹の虫が収まらず、帰宅後に部落民の仲間を集めて自転車屋に押しかけ、「部落解放同盟」の名のもとに警官ともども糾弾し、自己批判書と「一切の脅迫を受けておりません」との確認書を書かせたことがある。

和田山の支店に転勤すると丸尾が部落民であることは周知の事実となり、運転手と喧嘩した時に「われみたいなもん、なに怖いんやッ」と言われ、これを差別発言として謝罪させたことがある、という。新日本運輸に在職しつつ、1971年暮れ頃から妻と共に自らの自動車整備工場を作り始め、退職後に独立。1971年から部落の同対委員となり、1972年から南但民主化協議会青年部副部長をつとめる。

朝来町の確認会では、社会教育主事による「いやしくも(苟も)、なになに」という発言を「卑しくも」と曲解して反発し、「ほかの所では良いけれど、われわれに"いやしくも"というような言葉は使うな。それはなんの意味だあ。おまえにその言うてることが差別だと分からしたる」と糾弾したことがある。1976年8月26日の八鹿・朝来事件併合審理の刑事公判で丸尾は、検察官に向かって「あなたにも子供がいるだろう。あなたの子供が部落問題とぬきさしならない関係になったら、今のような顔はしておれない。あなたの顔から笑いが消えるぞ」と凄んだ[87]

丸尾はまた、上記の田宮武による1986年のインタビューでも

「糾弾闘争ではわれわれは糾弾する相手を大事にしましたわ。決して殴ったりはしなんだでね」
「いうまでもなく暴力を振るうとか相手の人権を侵すとかなかったこと。とにかくみんな立派だったのは、煙草を吸う者が一人もいなかったからね、糾弾会の場で」
「差別者、差別をしてしまった人たちにたいするわれわれの配慮ということでは、自信がありますよ」

と、八鹿裁判の事実認定とは全く相反する発言をおこなっている。

さらに丸尾は、八鹿高校事件の民事裁判の控訴審第1回(大阪高裁、1990年12月20日)で「部落出身であることを隠して結婚した兄の息子の結婚式に出席したが、…その兄から『わしが死んだら、子どもと縁を切ってやってくれ』と頼まれて『わかっとるがな』と承知した」と陳述し、「卑屈にも部落差別を容認した過去の体験を、ためらいもなく反省を加えることもなく述べた」と批判を受けた[88]

なお、刑事裁判の地裁審結審後、部落解放同盟兵庫県連の内部で対立・抗争が激化し、この結果、丸尾は県連書記次長や執行委員から「きわめて陰湿な人間で、八鹿事件では黙秘権どころか警察の取調べに対し仲間のことを口軽くしゃべった、自己批判せよ」(1983年5月20日付の声明文)などと公然と批判された[89]

解放同盟側の見解

部落解放同盟員らは、1975年に八鹿高校教職員たち61名から民事訴訟を提起され、慰謝料等を請求された。これに対し、部落解放同盟側は「暴力など振るっていない」「教師たちとの話し合いは整然と行われていた」「仮に暴力があったとしても、教師たちが突然下校してしまい、しかも頑固だったため、傍にいた同盟員が突発的に手を出しただけ。他の同盟員らと共謀したわけではない」「差別教師に対して当然の糾弾権を行使しただけ」「仮に暴力があったとしても、教師たちにも落ち度があり、慰謝料額は大幅に過失相殺すべきである。そして教師たちは既に兵庫県から多額の和解金を受け取っているから、我々は何も払う必要はない」などと様々に抗弁したが、これらの主張は民事訴訟で全て退けられた[90]。このとき、部落解放同盟側の代理人弁護士を務めたのは麻田光広、山上益朗、松本健男、桜井健雄、上野勝、中北龍太郎らであった[91]。部落解放同盟は、八鹿・朝来事件の裁判を「第二の狭山裁判」と位置づけ、全国動員をかけ、1975年5月30日の初公判には神戸地裁に数千人の部落解放同盟員が集結した[92]

部落解放同盟による暴力そのものがなかったとする立場

1974年12月7日に八鹿入りした[93]日本社会党調査団(団長・湯山勇[注釈 6])は「暴力を見たものはひとりもいなかった」と主張し[95]、衆院議員の和田貞夫(日本社会党)は1974年12月24日の衆議院地方行政委員会で「赤旗」の報道を「あまりにもひどい一方的な発言、一方的な報道です」と批判。部落解放同盟による暴力を大々的に宣伝したのは日本共産党によるデマと訴えた[96][注釈 7]

ただし、この和田自身が翌1975年12月18日の衆議院内閣委員会では「いかにも八鹿高校の問題が、原因を抜きにいたしまして、ただリンチ事件、暴力事件があった、これを部落解放同盟がやっているのだという誇張された宣伝[98]」と述べ、本事件における部落解放同盟の暴力とリンチを認めてしまっている。1976年4月21日の部落解放同盟兵庫県連大会では、執行部派が反執行部派の丸尾良昭(八鹿高校事件主犯)に対して「おまえ、ええかっこいうが、朝来事件や八鹿高校事件は暴力ではなかったのか。『解放研』の女子高校生を強姦までしている」と野次っており、八鹿高校事件における、強姦を含む暴力行為の存在が部落解放同盟の内部でも知られていたことが窺える[99]

このような日本社会党によるプロパガンダの「方向修正」について、日本共産党は

「現に八鹿問題では、最初社会党は暴力はなかったといっていたでしょう。しかし、いまではほとんど直接的な擁護はできなくなって、やれ原因論とか、挑発論とか、新しいデマ的な方向へ口実をさがしているわけです」[100]

と批判した。 1975年2月21日から翌日にかけて、北九州市職員労働組合(北九市職労)を中心とする91名の「福岡県八鹿高校事件現地調査団」(団長は片岸真三郎=北九市職労委員長)が八鹿高校事件の真相を知るべく現地を視察[101]。部落解放同盟の役員でもある門司清掃からの参加者が

「同和教育をめぐって、ほんとうに暴力・リンチ事件が八鹿高校で起こったのだろうか…と半信半疑で汽車に乗った。私は暴力・リンチはデマであり、デッチあげであることを期待していた。私は同和地域の人間であり、解同の役員をしているからだ」
「はじめは警戒していたが、"私たちは福岡県の北九州から来ました"というと話しはじめた。"十一月二十二日、ほんとうに暴力事件がありましたか?"と聞くと"事実は『赤旗』がかいている。国会でも追及しているだろう。あれがほんとうのことだ"と事件について、いろいろ話してくれた。私たち三人の仲間は十数人の町民から、直接の声を聞いた。全部の町民が"暴力はあった"と語った」

と同年3月20日付で機関紙『北九の仲間』に書いたところ、部落解放同盟の地協から除名される騒動に発展したこともある[101]

裁判では被告人の誰一人として、八鹿高校で暴力事件がなかったと陳述する者はなかった[102]。また、1983年の刑事裁判地裁判決後には『解放新聞』が「今後は、個々の闘争の状況についての立証を重ね、監禁・強要などの事実が存在しなかったことを明らかにしたい」[103] と報じた他、県連委員長の大西正義も「糾弾で負傷者が出たことは誠に遺憾だが、本来私たちの糾弾は暴力を否定するもの」[104] とコメントしており、この段階ではもはや部落解放同盟も傷害の事実に対する否認の主張を放棄していた[105]。糾弾に加担した八鹿高校校長(当時)は当初「暴力は現認していない」と言っていたが、後に法廷で証言を翻し「現在はあったと思っております」と述べている[106]

なお、少年時代に部落解放同盟系の団体で活動していた上原善広は「八鹿事件は共産党のデマだ」と教えられてきたが、大人になりルポライターとして取材を進めるうち「暴力行為があったのは事実だと確信」するに至った、と述べている[107]

部落解放同盟による暴力はあったが、被害者のせいであるとする立場

部落解放同盟の立場から編纂された『部落問題事典』(部落解放研究所編、解放出版社発行、1986年)は、本事件における暴力糾弾への摘発を「刑事弾圧」と呼んだ上で、

「このような不幸な事件に発展した主な原因は、同校分会が属する教職員組合が、国民融合論と教師聖職論のとりこになっていたことにある。部落差別を<封建的身分制の遺物>としかみない前者の立場から、糾弾は<国民的な和合をはばむ>と否認され、<教師の中立性>を標榜する後者からは、出身生徒と部落の父母・住民の解放への鋭い要求を<ファシズムの教育介入>という予断に満ちた政治的対応でしか受けとめられず、その対立をセンセーショナルな差別キャンペーンによって被差別側に責任転嫁し、党派拡張に利用したことにあった」

と記し、争いの原因はあくまで被糾弾者の側にあったとしている(筆者・麻田光広[注釈 8])。

部落解放同盟の上杉佐一郎は、「八鹿高校事件などは、日本人民全体に対する警鐘」と断言し、暴力は「差別者」に対する警告であったと恫喝し、「居直り強盗の態度」と批判された[108]

当初、部落解放同盟による暴力の存在を否定していた『解放新聞』は、やがて「差別教師引き金論」「共産党挑発論」に転じ、「かつて関東軍みずから張作霖を爆破しながら、これを中国人民になすりつけ、中国侵略の口実につかったのと同じ手口を宮本一派が使っている」と主張した[109]

部落解放同盟による暴力はあったかもしれないが、被害者のせいであるとする立場

後年、主犯丸尾良昭(部落解放同盟兵庫県連合会沢支部支部長=当時)は内紛により部落解放同盟兵庫県連合会から除名処分を受けたが[110]、その後も八鹿高校事件における部落解放同盟側の正当性を訴え続けている。2012年上原善広の取材に応じた丸尾は

「暴力は一切、やってません。むしろ私なんかは反対に教師たちに暴力を振るわれ、校長室で夕方まで寝込んでおった[注釈 9]。ただ水は確かにかけましたし[注釈 10]、体育館に連れて行ったりすることが違法行為であることは承知していました[注釈 11]。しかし、そうでもしないと、この地域は変えられなかったのです」[37]
「若い者の間には、私のいない間に暴力をふるった者もいるかもしれません。しかし、それだけの理由があるのです」[37]
「私の場合でいえば、執行猶予がついただけでも勝利なんです。それに88年の控訴審判決では、裁判所に『部落差別は現在も極めて深刻な問題だが、法的規制や救済制度は不十分。糾弾行為は社会的に許される限度で認めることができ、耐え難い差別への反発からかなりの厳しさが伴うことが許される』と、糾弾権を認めさせた。これは八鹿闘争の勝利です」[37]

と発言している。(主犯丸尾良昭は八鹿高校事件のほか、元津事件ならびに橋本哲朗宅・木下元二議員包囲事件でも起訴されていた上、捜査段階から「本件は正当な糾弾権の行使であり、罰せられるべきは橋本哲朗であり、八鹿高校教師集団である」「差別を公然と行い、恥じることのなかった教師集団と、それを後ろであやつる日共差別者集団宮本一派こそ罰せられるべきであると思う」などと開き直りを続けており[114]、一審における懲役4年の求刑にも拘らず執行猶予がついたことについて、検察から量刑が軽すぎるとの異議が申し立てられていた[115][注釈 12]。)

丸尾の「暴力は一切、やってません」との主張は、神戸地裁豊岡支部の民事判決で完全に退けられ、「被告丸尾良昭は、名実共に糾弾共闘会議の議長として動員された解放同盟員らの行動全般を指揮、統括しており、解放同盟員らによる本件不法行為につき、いずれも認識、認容しながら、ある部分については明示的に指揮し、他の部分については流れにまかせるなどして、結局、解放同盟員らと明示又は黙示に意思を通じ、本件不法行為の全部を共同して行ったものというべきである」と認定された[118]

また神戸地裁の刑事判決では、犯行当日(1974年11月22日)、丸尾が八鹿高校の学生自治会役員から「暴力はやめてくれ」と言われたが「もう、おそい」と相手にしなかったこと、同日午後2時ころ別の生徒から「暴力は振るわないという約束に反したではないか」と追及され「暴力は仕方がなかった」と答えたことが認定され[119]、この認定は大阪高裁の控訴審でも肯定されており[120]、「暴力は一切、やってません」との上掲発言とは相容れない[注釈 13]

部落解放同盟はむしろ暴力の被害者であるとする立場

事件当時、部落解放同盟はマンガ入りのチラシ「暴力の犯人はいったい誰だ!! 日本共産党差別者集団宮本一派にあやつられる教師群団(ママ)─」を配布して世論誘導を図った[121][122][123]。その内容は

  • 部落研の生徒たちが二階の窓から「エッタ帰れ」「四つ帰れ」などと叫んだ。
  • 教師集団は授業打ち切りを宣言。座り込んでいる解放研の生徒たちを「アホンダラーそんなことをやるのはエッタや!!」と罵りながら図書室に集まった。
  • 図書室で協議した結果、教師集団がスクラムを組んで下校を始め、制止する校長らを突き倒して失神させた。
  • 「子供を殺すのか」と制止する丸尾を、教師集団はめった打ちにして引きずりながら校門を出て行った。
  • やがて立脇履物店の前で民青4人が教師集団に飛びかかり、乱闘を繰り広げた。
  • それを見た丸尾は解放車に駆け上がり「暴力はいけない」と叫んだ。

というものであったが、調査の結果、検察も生徒自治会[124] も差別発言を聞いた者の存在を一人も確認できず、全くの事実無根であることが判明したという[125][123][注釈 14]。しかし事件当時、杉浦明平はこのデマを鵜呑みにし、『解放新聞』で「日共のやり方は計画的挑発だし、部落大衆と民主主義への挑戦だ」とコメントした[127][128]。『解放新聞』は「"部落解放運動"の歴史のなかで八鹿高校事件ほど大仕掛な弾圧事件は存在しない」とも報じた[129]

ところが裁判では、丸尾は「部落解放同盟こそ暴力の被害者である」とは一言も主張しなかった[130]。ただし、部落解放同盟兵庫県連北川派が丸尾に暴力を振るった事実はある[131]

また1975年には、町内を通行中の部落民に対し、部落解放同盟が解放車から「おまえもエッタではないか、それならそれらしくしろ」と叫び、翌日になると「きのう日共が町内をエッタ、ヨツと差別宣伝した」と喧伝する自作自演行為が報じられた[132][133]

非公式に糾弾の行き過ぎを認める立場

灘本昌久

矢田事件1969年)や八鹿事件(1974年)は、衝突[注釈 15]の原因を共産党側がつくり、解放同盟側に一定の正当性があったとはいえ、抗議の手段や方法において行き過ぎがあったことは明らかだろう。それは、私が思っているだけでなく、多くの解放同盟幹部が私的にはそういう感想をもらすのである」

と述べ、部落解放同盟の内部にも非公式には同盟側の非を認める声があることを証言している[135]。また、神戸地裁の刑事判決も「本件が"いきすぎた糾弾"であったことは少なからぬ被告人が自認している」[54] と述べている。

1995年には、部落解放同盟の立場から編纂された『戦後 部落問題関係判例[解説編]』までが本事件について「約50名の負傷という結果を出したことは糾弾闘争としてあってはならないこと」[136] と批判するに至った。ただし今日に至るまで、部落解放同盟が公式に自らの誤りを認めたことはない。

解放同盟批判派の見解

上記のように部落解放同盟の公式見解としては本事件の責任を日本共産党の「差別教育」に帰しているものの、最高裁民事判決は、事件当時の八鹿高校の同和教育授業[注釈 16]について「少なくとも部落差別を助長するような差別教育ではなかったことは明らか」と判示している。

事件当時における八鹿高教師のリーダー格で「部落研」の顧問を務めた片山正敏(高教組但馬支部長=当時)は、2012年、上原善広の取材に応じて

「糾弾がはじまると、まず何度も水をかけられました。当時の11月下旬というのは、今と違ってさらに寒かった。それから多い時は7、8人に囲まれて、殴る蹴るの暴行です。とくに私は解同から狙われてましたからね。しぶとく我慢していると、違う部屋に連れて行かれ、そこでも殴る蹴るの繰り返し、挙げくにタバコの火まで顔に押しつけられた。まるで戦前の特高なみですよ。それから午前10時すぎ頃に自己批判書を書かされました。(中略)終わったのは午後11時くらいでしたから、12時間ほどの糾弾会でした。私は診断書によると肋骨骨折、腰椎横突起骨折、顔面打撲などで全治2ヶ月の重傷を負い、入院しました」[37]
「私は、私は小林多喜二になりそこねた男ですッ。自己批判書なんて屈辱的なもの書かされて、これは一生、心の傷となっています」[37]

と述べている。また、共産党員以外の教師も

「解放同盟のメンバーが半長靴で蹴りながら教師たちのスクラムを崩して、第二体育館へ連れて行ったのは事実です。体育館では最初に泥水を掛けられます。私は9杯かけられたところまでは覚えています。その後も殴ったり蹴ったりされて、気を失ってしまいました。(中略)私は救急車で病院に運ばれ、そのまま2週間入院しました」(特に支持政党のない70代の元教師)[37]
「女性教員なんか髪の毛ひっぱられたから、そこだけごっそり髪の毛が抜けていた。顔を腫らしている人も沢山いた。だから暴力があったのは確かです」「タバコの火をあてることも十分ありうる話です。実際に見たわけではありませんが、傷跡は見ていますし、暴行されているところは目の前で見ていますからね」「自己批判書は、会議室で書くんです。私は夕方には会議室に連れて行かれて書かされた。それも1回じゃ駄目なんです。解同が満足するまで何度も書き直しさせられました」(当時の解放同盟と同じく社会党を支持していた72歳の元教師)[37]

などと証言し、無党派層や社会党支持者も解放同盟から暴力の被害を受け、あるいは「自己批判書」を書くことを強要されたと伝えている。 また、部落解放同盟と対立関係にある人権連

「1970年代半ば、「解同」は「同和」を看板にして、やりたい放題のことをやりました。 当時、あたしはまだ子どもでしたが、「同和の人らはこわい」って言う声を、よく聞いたものです。 その頂点が、1974年の「八鹿高校事件」でしたな。 自分らの言うことを聞かない教師を、集団でリンチにかけてしまったんですから、ひどいもんです。 これ、最初は警察も動かなかったんですよ。 警察官だって人の子ですから、やっぱり命は惜しいんでしょうな。 でも、それに味を占めた「解同」が好き勝手やりまして、「同和はこわい」ってことになっちゃった。 「解同」は、刑事・民事ともに、最高裁判決で有罪となったのに、この問題については21世紀のこんにち現在、反省していないんですからな。 まったくもって図々しいヤツらで。 もう図々し学校を優等で卒業したようなヤツらです」[138]
「刑事と民事の裁判で事実が確定した今も、インターネットなどで事実と本質をゆがめたり、曖昧にしたりする記載をしている人たちがいますが、いずれも、現地の住民や当事者から直接話を聞かず、出版物の記載と先入観(偏見)であれこれ論じているのが特徴です」[59]

と述べ、「同和はこわい」とのイメージが社会的に定着したのは、本事件における部落解放同盟の暴力行為によるものと評している。 寺園敦史もまた、前記の「八鹿闘争勝利記念碑」の碑文を「歪曲、あるいは主観的な意見という範囲を超えた、嘘の記載」と批判し、

「いくら「部落解放」だの「差別糾弾」だのといった名目をつけたとしても、集団で人を死にかけるまで暴行すれば、警察が動くのは当然のことです。これを一般に弾圧とは呼ばない」
「「1988年5月大阪高裁は教師の不当性、憲法の14条に根拠を置く糾弾闘争の正当性を判決した。」という点は、事実に反しています。「同判決は、確認・糾弾行為について「糾弾は、もとより実定法上認められた権利ではない(中略)、一種の自救行為として是認できる余地がある」と述べているのであって、一般的・包括的に糾弾行為を自救行為として是認したものではなく、まして「糾弾する権利」を認めたものではない」(「確認・糾弾」についての法務省見解)ということだったはずです」
「いったい誰が、何に対してどのような勝利を獲得したというのか。(略)部落問題の解決という大きな流れで振り返るなら、事件に勝者などありえない。全員が敗者だったことになると思えるのです」

と論じている[58]

リンチの具体的な内容

八鹿高校事件で暴力を受けた被害者の写真。激しい暴力を受けた結果、意識不明のまま病院に搬送され、入院27日間の加療を余儀なくされた。
八鹿高校事件で暴力を受けた被害者の写真。火がついたタバコを押しつけられ、牛乳ビンや南京錠で殴打され、入院16日間の加療を余儀なくされた。
八鹿高校事件で暴力を受けた女性被害者の写真。頭髪がむしられた痕が残っている。
八鹿高校事件で暴力を受けた被害者の写真。左肩甲骨を折られている。
瀕死の重傷者を含む被害者たち29名が入院した公立八鹿病院。被害者の入院日数は最長で109日間に及んだ[139]

神戸地裁豊岡支部における民事裁判では、部落解放同盟員らによる以下の不法行為が事実認定された。

  • 「差別のことを考えたら、お前らの命なんか大したことはない」と怒号しつつ、教師の頭や顔や腹や腰を蹴り、肩を踏みつけたり蹴ったりした他、頭髪を引っ張り、「折ったろか」と言いつつ腕をねじ上げる[140]
  • 体育館内で教師を引きずって移動し「お前らみたいな共産党は殺したってどうちゅうことないんだ」と脅す[141]
  • バケツを教師の頭にかぶせてガンガン叩き「わりゃ共産党か、殺したろか」などと言いながら脇腹を突き、顔を殴り、ハンドマイクを耳元に当てて怒鳴り、何杯も水をかけ、腹を踏みつける[141]
  • 「ものを言え」「水を飲んだらものを言うか、水飲ましたれ」などと言って、雑巾バケツや湯飲み茶碗で汚水を無理やり口の中に注ぎ込む[141]
  • 顔に往復ビンタを浴びせ、みぞおちを殴り、メリケンサックで顔や腹を10数回殴り、「タバコ吸いたいだろう」と言って、火のついたタバコを顔に押しつける[141]
  • 無理に自己批判書を書かせた上、自己批判書は自分の意思で書いたことを認めさせる[141]。自己批判書には、これまで行って来たことは差別教育だったと書くよう要求[142] し、「解放同盟と連帯して部落解放のため闘う」旨を書かせる[143]
  • 解放研部室に数人で教師を連行し、ネクタイをつかんで顔を殴打、タバコの火を顔に押しつけ、「お前部落差別の苦しみわかっとるか、部落差別だれが作ったか言うてみい」と詰問。答えると、「お前らみたいな者に教えてもらおう思わへん」と言って殴る[144]。「お前らは部落民の苦しみが判るか、判らなければ判らせてやる、まだこんな事ではすまんぞ」と怒鳴り散らす[145]
  • 「お前もわしらと同じようにしたろか」と言って教師の手を机に押さえつけ、左手の小指めがけて椅子を打ち下ろす[144]
  • 教師が吐き気を訴え、意識が朦朧としてくると「そんなもん休ましたらあっかい(地元の方言で「だめだ」の意味)」と言って叩き、「寝たらあかん」と言って顔や首にタバコの火を押しつけ、「下向いたらあかん」と言ってメリケンサックをつけた手で顎を殴る[144]
  • 「言うことをきかんかったら二階から突き落とすぞ」「お前も家族おるやろ、家族をここへ連れて来て糾弾するぞ」[146]「お前女房おるか、おるならここへ連れてきて一緒にやったる」[147] などと脅す。
  • 女性教師を4人で取り囲んで詰問し、髪の毛を引っ張り、板壁に頭を打ちつけ、顔を平手や手拳で10回ほど叩き、胸を数回小突き、耳元で「つんぼか」と怒鳴る[148]。女性教師が黙っていると「こいつはしぶとい、女やいうて甘うせんぞ」などと言い、体育館から別の場所に引きずって行き、冷水をバケツで二杯背中に流し込み、前からも一杯前身に浴びせ、襟首をつかんで投げ飛ばす[148]
  • 女性教師に「何を教えとるん」と質問[149]。女性教師が黙っていると、左耳を右手でつかみ、耳元で「わからんのか、おしか」と大声で怒鳴る[149]。さらに「まだしゃべらんのか」と言って髪の毛を引っ張り、やかんの水を頭からかける[149]
  • 当時24歳の[150] 女性教師を大勢で取り囲み、差別教育をしていたことを書けと要求。女性教師が拒否すると、蹴ったり髪を引っ張ったり首を絞めたりする暴行を加え、さらに体を抱き上げて身体中を触り、タイツを脱がせようとする[142]

被害者の中で最年少の当時24歳の女教師は「『やってしまえ』の声とともにタイツを脱がされかけ、『自己批判書を書きます』と言わされた」と第42回刑事公判で証言した[151]。これは部落解放同盟員による強制わいせつ行為として、弁護士の山内康雄から批判されている[152]。西岡幸利(兵庫県高教組)は、次のように記している。

「S(旧姓K)S子先生が証人となった12月の刑事公判を傍聴した。『解同』への屈服を拒否したため眼にアザができるまで殴られ、両脇を抱きかかえられて吊るされ、体中さわられた先生である。『やってしまえ』の声とともにタイツを脱がされかけたとき、遂に『自己批判書を書きます』と口走ったという。無法がまかり通る薄暗い校舎の中で、『やってしまえ』というコトバが具体的な動作とともに投げつけられることは、婦人にとっては恐らく死よりも苦しかったことだろう」[153]

衆院議員の山原健二郎(日本共産党)は、第73回国会・衆議院文教委員会(1974年11月25日)で「あるお産をしたばかりの女教師は、ほとんど下着一枚になり、乳房も出ておるという状態の中で、人事不省におちいって入院をいたしております」と発言している[154]

原告57名のうち、29名が入院し、13名が事件後も後遺症に悩まされ続け、地方公務員災害補償基金障害等級12級から14級の認定を受けている[155][156]

控訴審判決と「糾弾権」

大阪高裁における刑事裁判の控訴審は以下のとおり判示した。

「今日なお部落差別の実態には極めて深刻かつ重大なものがあるにもかかわらず、差別事象に対する法的規制若しくは救済の制度は、現行法上必ずしも十分であるとはいいがたい。そのため、従来から、差別事象があった場合に、被差別者が法的手段に訴えることなく、糾弾ということで、自ら直接或いは集団による支援のもとに、差別者にその見解の説明と自己批判とを求めるという手法が、かなり一般的に行われてきたところである。この糾弾は、もとより実定法上認められた権利ではないが、憲法14条の平等の原理を実質的に実効あらしめる一種の自救行為として是認できる余地があるし、また、それは、差別に対する人間として堪えがたい情念から発するものであるだけに、かなりの厳しさを帯有することも許されるものと考える」[157]

これをもって裁判所が「糾弾権」を認めたと喧伝する向きもあるが[158]、判決はさらに

「しかし、そこには自ずと一定の限度があるのであって、個々の糾弾行為につきその違法性の有無を検討するに当たっては、当該行為の動機・目的のほか、手段・方法等の具体的状況、更には、これによって侵害された被害法益との比較など諸般の事情を考慮し、法秩序全体の見地から見て許容されるかどうかを判断すべきものである。そして、右の見地から見て許容されないものについては、刑法上それが正当行為に当たるとも、また可罰的違法性を欠くともいえないのである」[157]

と続いており、結論としては本事件における糾弾行為の法的根拠を否定する内容となっている。

神戸地裁豊岡支部における民事裁判でも、1990年3月28日に「被告ら主張の糾弾権なるものは実定法上何ら根拠のないもの」と認定された(裁判長裁判官・白井博文、右陪席裁判官・栃木力、左陪席裁判官・浅見健次郎[159]

法務省もまた「本判決は、一般的・包括的に、糾弾行為を自救行為として是認したものではないことに留意しなければならない」「本判決は、前記のとおり、「糾弾する権利」を認めたものではないから、もとより「糾弾を受けるべき義務」を認めたものでもない」と解説している[160]

事件の余波

部落地名総鑑の出現

事件後、1975年から『同和地区地名総鑑全国版』(1975年初出)、『全国特殊部落一覧』(労政問題研究所、1975年2月初出)、『人事極秘 部落地名総鑑』(京極公大こと坪田義嗣、企業人材リサーチ協会・企業防衛懇話会、1975年4月初出)、『(○の中に特)分布地名』(本田治、本田秘密探偵社、1976年3月初出)が出まわって問題となったが[161]、このうち『人事極秘 部落地名総鑑』の売り込みの文句は

「(略)同和行政については、各政党は重大な社会問題であるとして、激論をかわしているものの抜本的な解決策が何らなされていないのが現状である。(略)

(略)八鹿高校問題の様に暴力事件、リンチ事件が発生して社会的な問題となっている。

 これは一高校の問題であるとして見過ごすことはできない。この様な事は、企業においても起こりえないとは断言できない。これらの人々の採用が果たして妥当であるかということは、封建時代のイデオロギーとして残されたものであり問題ではないとすますことが出来るでしょうか。

 観念的、心情的に同情することも考えられるでしょう。八鹿事件に見る如く行動の多くに疑問が山積しているのではないでしょうか、問題は今、大きくクローズアップされている。企業において人事担当の各位にはこの点について如何様にお考えでしょうか。

 現在、我が国におきまして、昭和37年の総理府統計によると、4,160部落、111万人をこえる人口千人に対して11.8人という比率が出ている。実情は5,366部落を超えて現存している。私達は、この際、この様な事実関係を正確に認識して企業百年の将来のためにも誤りなきを期してゆかなければなりません。

 今般、企業の担当の各位に、その実態と実情を詳述した「部落地名総鑑」を提供して人事調査と人事考課に一助の資料としてお手許に届けたいと考えております」[162]

と、本事件による一般人の恐怖心を意識した内容となっていた。「この事件は…部落問題に関わることへの忌避感情をより強く植えつける結果をもたらしたことは否めない」と記している事典もある[163]。ただし被差別部落の一覧をまとめた本は、矢田事件(1969年)の直後から『日本の部落』(遠藤栄一、労政経済研究会、1969年初出)、『全国特殊部落リスト』(鈴木守立、田中靖造、労政問題研究所、1970年初出)、『大阪府下同和地区現況』(鈴木守立、田中靖造、労政問題研究所、1972年初出)、『特別調査報告書』(布上善之、サンライズ・リサーチ・センター、1974年初出)などの題名で刊行されていた[161]。また、同和団体による集団暴力事件は全国水平社の時代から発生していた。

このような地名総鑑の登場について、諫山博(衆参院議員・日本共産党)は

「八鹿高校事件を頂点にして、部落解放運動という名のもとにさまざまな暴力行為が行われる。校長先生がなわで縛られて他の学校の生徒の前に引き出されるとか、西宮事件におけるような幾つもの集団的な暴力事件が起こる。こういう事件が適切に処理されなかった。そこで、部落の人は乱暴なことをするんだ、暴力を働くんだというような気分が国民の間に広まっていく。これが今度の差別文書のばらまかれる一つの背景をなしているということは、広告のチラシ自体に書かれているわけです。その点ではこの差別文書をつくった男もけしからぬし、これを他に悪用する目的で買い入れた者もけしからぬ。しかし同時に、こういう状態を黙認し、助長してきた政府の責任もやはり問われなければならないと私たちは思っております」[164]

と批判した。

日教組と全教

日本社会党部落解放同盟と共闘関係にある日教組は、八鹿高校事件で部落解放同盟を擁護し、被害者たちを批判する立場に終始した[165]

これに対し、八鹿高校事件の被害者たちを擁護する兵高教組は1991年全教に加わり、日本共産党全解連と協力・共同の関係を保ち、今日に至っている[165]

天理西中学校事件

また、1989年奈良県天理市で起きた天理西中学校事件では部落解放同盟奈良県連の同盟員らが「八鹿のように闘うぞ」とのシュプレヒコールとともに暴行傷害・器物損壊行為に及んでおり、「第二の八鹿高校事件」と呼ばれた。

事件後の八鹿高校

八鹿高校の入学者数は減少が進んだ。もともと八鹿高校は普通科と職業科に分かれており、部落出身生徒の多くは職業科に在籍していたが、1976年には職業科が分離して兵庫県立但馬農業高等学校に統合された[166]

2012年現在、八鹿高校の生徒数は640人ほどで、事件当時の半分程度に減少している[37]。暴力事件の現場となった第二体育館が建て替えられた理由の一つも「事件の忌まわしい記憶を消したいため」であったと、同校校長の北井清は述べている[37]

後日談

主犯丸尾良昭は部落解放同盟を除名された後、2007年にNPO法人「部落解放・人権ネット南但地協」を創立し、代表者を務めている[167]。地元の被差別部落の区長をも務めた[168]

2012年、八鹿高校事件被害者の元教師3人に、養父市議選(2012年10月21日投票)における公職選挙法の文書違反の嫌疑がかかり、2013年4月24日[169] には兵庫県警が家宅捜索を行い、その後も断続的に任意の事情聴取が行われている[170]。日本共産党はこの事件を「養父不当捜査事件」と呼び、警察に抗議している[171][172]

被疑事実は、市議選中に元教師から八鹿高校卒業生宅に届いたとされる「あの日のことを思い出してほしい」[173]という手紙が公選法違反とされたものであり[174]、地元住民からは「八鹿高校事件の時、警察は傍観していただけだった。なぜこんなことで捜査するのか」との批判の声があるが[175]、3年の公訴時効が迫った2014年11月の段階でも任意捜査が続いており、日本国民救援会などが兵庫県警に抗議している[176]

刑事事件の専門家によると、公選法事案で半年後に家宅捜索を行うのは異例の事態であり、また押収品還付後に捜査終結や送検を行わないのも異例の対応で、この度の兵庫県警のやり方は捜査実務上不可解であるという[177]

関連図書

部落解放同盟を支持する立場からのもの

  • 狭山差別裁判取消し、無実の石川一雄即時釈放要求中央闘争委員会編集「狭山差別裁判」第14号「特集八鹿高校事件の真相はこうだ : 仕組まれた暴行と差別教育の実態」(狭山差別裁判取消し、無実の石川一雄即時釈放要求中央闘争委員会, 1974)
  • 兵庫県教育研究所「凍った炎(八鹿高校差別事件)」上下(明治図書出版, 1975)
  • 高杉晋吾『部落差別と八鹿高校』(三一書房, 1975)
  • 久保井規夫「ドキュメント・ルポ兵庫県八鹿教育差別事件の真相燃えよ但馬」(教育労働出版会, 1975)
  • 月刊「部落解放」65・66号所収「特集 兵庫・八鹿高校差別教育事件の真相」(解放出版社, 1975)
  • 全国解放教育研究会「但馬の雪の下で 八鹿高校差別教育事件の背景」(明治図書出版, 1976)
  • 田宮武「生きて闘って―南但馬の部落差別と解放運動」(兵庫部落解放研究所, 1982)
  • 田宮武「被差別部落の生活と闘い」(明石書店, 1986)

部落解放同盟を批判する立場からのもの

  • 兵庫県養父郡兵庫県立八鹿高等学校生徒自治会「八高11・22その日 第1集」(1974)[178]
  • 兵庫県養父郡兵庫県立八鹿高等学校生徒自治会「八高11・22その日 第2集」(1975)[178]
  • 兵庫県養父郡兵庫県立八鹿高等学校八鹿高校新聞部「八鹿高校新聞」(1975)[178]
  • 兵庫県養父郡八鹿町町立八鹿中学校「母親の手記」(1975)[178]
  • 八鹿高校教職員家族会「絆 11.22八高事件」[178]
  • 兵庫県高等学校教職員組合八鹿高等学校分会「八鹿から全国へ全国から八鹿へ―八鹿高校事件の真実」(汐文社, 1975)
  • 東上高志「ドキュメント八鹿高校事件」(汐文社, 1975)
    • のち東上高志「東上高志同和教育著作集」第18巻 (ドキュメント八鹿高校事件) (部落問題研究所, 1993.6)に収録
  • 「解同」朝田一派のいっさいの暴力から国民のいのちと人権, 教育と自治をまもる中央連絡会議編「「解同」朝田派による暴力,教育・自治破壊の実態と公正・民主的同和行政 : 資料集」(「解同」朝田一派のいっさいの暴力から国民のいのちと人権, 教育と自治をまもる中央連絡会議, 1975)
  • 季刊「同和教育運動」7 特集「八鹿高校事件と同和教育運動」(部落問題研究所, 1975)
  • 杉尾敏明編「資料・八鹿高校の同和教育―方針・展開・体制」(神戸部落問題研究所, 1975)
  • 兵庫県高等学校教職員組合八鹿高校分会編「資料八鹿高校事件 : 解同朝田派の教育破壊と住民支配の実態」(兵庫県高等学校教職員組合八鹿高校分会, 1976)
  • 兵庫県高等学校教職員組合八鹿高校分会編「八鹿は屈しない 八鹿高校事件・朝来事件裁判の現状 被害者の目をとおして」(公正・民主的同和行政の推進、地方自治と教育、人権を守る兵庫県共闘会議, 1976)
  • 兵庫県高等学校教職員組合八鹿高校分会編「八木川広く深き流れに : 八鹿高校事件3周年記念写真集」(八鹿・朝来暴力事件3周年記念事業実行委員会, 1977.11)
  • 八鹿の真実を守る会編「八鹿高校事件の真実: 但馬からのレポート」(部落問題研究所出版部, 1978.3)
  • 「八木川の流れ絶えることなく いま、あらためて語る“あの日々”のすべて」(公正民主的な同和行政と地方自治・教育・人権を守る兵庫県共闘会議, 1981)
  • 杉尾敏明「部落解放と民主教育―現代同和教育論」(青木書店, 1985.3)p.251-264
  • 瀬川負太郎「部落問題の状況 糾弾、土地転がしの総決算」(小倉タイムス, 1985.4)
  • 吉開那津子「希望」上下(新日本出版社, 1987)
  • 成沢栄寿「部落解放同盟」はいま(部落問題研究所, 1989.10)
  • 朝治武灘本昌久・畑中敏之編「脱常識の部落問題」(かもがわ出版, 1998)p.108-116掲載、上丸洋一「少数者は常に正しい、わけではない」
  • 自由法曹団「自由法曹団物語 世紀をこえて」上下(日本評論社サービスセンター, 2002)
  • 東上高志「川端分館の頃」(部落問題研究所, 2004)
  • 一ノ宮美成, グループK21「同和利権の真相〈4〉」(宝島社, 2006.12)
  • 部落問題研究所編「部落問題解決過程の研究」第1巻(歴史篇) (部落問題研究所出版部, 2010.11)
  • 八鹿・朝来暴力事件と裁判闘争 1974-1996 (公正・民主的な同和行政と地方自治・教育・人権を守る兵庫県共闘会議, 1996)
  • 兵庫人権問題研究所編 編『今、あらためて八鹿髙校事件の真実を世に問う : 一般社団法人兵庫人権問題研究所開所40周年記念 : 「八鹿高校事件」40周年』兵庫人権問題研究所、2014年。全国書誌番号:22497412 

それ以外の立場からのもの

のち改稿の上『差別と教育と私』(文藝春秋社、2014年)に収録。

判決書全文

  • 部落解放研究所編『戦後 部落問題関係判例[資料編]』p.205-317(部落解放研究所, 1995)ただし刑事判決のみ収録。
  • 『八鹿高校事件民事訴訟判決集(全文)』(公正民主な同和行政と地方自治・教育と人権を守る兵庫県共闘会議, 1990)民事判決を収録。

関連映画

『八鹿高校事件原告団「映画・八鹿高校事件』
兵庫県高等学校教職員組合但馬支部、1975年。
2014年、兵庫人権問題研究所によりDVD形式で復刻された[181]
『八鹿高校事件・朝来暴力事件─八鹿からあなたへ─控訴審の支援をおねがいします』
企画=兵庫県人権共闘、協力=中央連絡会議、製作=サウンドユー・プロダクション、1984年。[182]

このほか、部落解放同盟が事件当日に凶行現場を撮影した8ミリフィルムが存在するが、警察に押収されており、一般公開はされていない[183]

脚注

注釈

  1. ^ 高校のクラブは、体育系・文化系を問わず、まず同じ趣味を持つ何人かが集まり、生徒会(八鹿高校では生徒自治会)と職員会議(学校のすべての教職員で構成される)に「同好会」として申請する(その時に教員の顧問が付く)。その「同好会」の活動実績(概ね3年程度)に基づき、生徒会と職員会議によってクラブとして認定される。 「部落問題研究会」(共産党系の組織で、前身は社会問題研究会。その一部が分離して部落研同好会となった)は、生徒自治会と職員会議で認められたクラブであった。しかし「部落解放研究会(社会党系の組織)」は、このようなクラブと全く異質なものであることが民事訴訟で認定された[34][35]
  2. ^ このとき、教師らが連れ去られた後の路上で何者かが教師の遺留品を探っていたと兵庫県警巡査部長は証言している[41]。紛失したものは十数万円の現金や腕時計やカバンであり、遺失物横領の犯人は不明だったが、紛失したカバンの中身が『解放新聞』第818号に報じられたことから、部落解放同盟員が犯人であることは間違いないと考えられている[41]
  3. ^ 校長は事件前から主犯丸尾良昭と通じ合っており、丸尾良昭の意を体して八鹿高校における解放研の設立を許可したほか、校内の応接室を部落解放同盟の現地闘争本部として提供した[53]。解放研の設立に反対する教職員たちを「(解放研の要求をのまないと)責任がもてなくなる」と脅したほか、事件当日には暴力糾弾から逃れようとする教職員たちを制止し、部落解放同盟に協力した[53]。また同じ日に、警察からリンチ事件の収束のため出動したい旨の連絡を再三受けながら「校内では平穏に話し合いが行われているだけであって、警察の介入すべき事態は発生していない」と虚偽の回答を行った[53]。また、糾弾に参加しない教職員たちを電報で呼び戻し、総括糾弾会に部落解放同盟側の立場で参加した[53]。教頭や兵庫県教育委員会同和教育指導室の関係者についても同様の行動が確認されたが、昭和50年(1975年7月22日、吉川次席検事は
    「不起訴、起訴猶予にした理由はけん疑不十分、証拠不十分である。犯罪行為である強要、ほう助をしたことは認めているし、関係者も認めている。不起訴にしたことは、上司と相談のうえきめたことであり、それ以上のことはいえない」[10]
    と述べ、公判請求しなかった。ただし民事については八鹿高校教職員たち61名が神戸地裁豊岡支部に集団訴訟を起こし[10] 校長らに勝訴している。
  4. ^ 民事訴訟の第一審判決では「解放研生徒が要求する『先生との話合い』」は「連合解放研や解放同盟の役員の同席を条件とするものであって、このような話合いが、教育的営為としてなされる通常の先生との話合いとは全く異質のもので、教師を糾弾の対象とし、そのまま確認会、糾弾会に発展しかねない内実のものであったことは、他校の実例からも明らかであった」、「解放同盟という運動団体の指導と支援を背景に教師を糾弾の対象としか考えない解放研生徒に対しては、自校の教師といえども、もはや教育的営為を行うことは極めて困難な状態に立ち至っていたのである」と認定された[57]
  5. ^ 事件前から地元の商店街では部落解放同盟員が商品を持って行ったまま金を払わず「解放同盟につけとけ」で押し通し、「なんだかんだ言ったら、すぐ糾弾会にかけ、物言えんようにしたる」と脅す、などの無法行為がまかり通っていた、と地元のタクシー運転手は証言している[71]。文句を言われた部落解放同盟員は「俺らの苦しみを身にしみてやってみい」と開き直った[71]
  6. ^ 部落解放同盟の準組織内候補であった[94]
  7. ^ 金子満広(衆院議員・日本共産党)は、八鹿高校事件で部落解放同盟が「女教師まで裸にして水をかけ」たと国会で発言した[97]。これについて、部落解放同盟と共闘関係にある日本社会党の横山利秋(衆院議員)は「そういう事実はなかった」と否定したが、警察庁警備局警備課長(当時)の佐々淳行は「水をかけられ、ずぶぬれになった女の先生がいる、こういう被害申告はございます。また、服をぬがされそうになったという婦人の先生がいる、こういう事実関係については報告を受けております」と説明している。[96]
  8. ^ 麻田は、八鹿高校事件の裁判における部落解放同盟側の代理人弁護士の一人であった[91]
  9. ^ 丸尾は民事訴訟で「体調が悪かったので」「殆んど校長室で横になり休んでいた」旨を主張していたが、教師たちに暴力を受けたとは主張していない[111]。それどころか、当日の行動について、神戸地裁豊岡支部からは
    1. 朝、原告らの集団下校を知るや自ら隊列の前に立ちはだかってこれを阻止しようとしたこと
    2. 八鹿町民ホールにいる解放同盟員ら500名程度に動員の指令を出したこと
    3. 立脇履物店前では4人1組で原告らを八鹿高校体育館に連れ戻すよう指示したこと
    4. 第二体育館では、連行され奥にかたまっていた原告らを「一人一人ばらばらにして糾弾せよ」と解放同盟員らに指示したこと
    5. 午前中、校長室で救急車の手配や被害者らの入院を指示したこと
    6. 話し合いに応じる原告らを本館二階会議室等で糾弾するよう手筈を整えたこと
    7. 解放同盟の支部長に第二体育館の見回りを依頼したり、輩下に糾弾は統制をとるよう伝達させたりしたこと
    8. 午後2時ころ、学校近くの八木川の河原で八鹿高校の生徒有志700~800名が暴力非難のデモ行進を予定し集会を開いたところ、これを阻止すべく説得に駆けつけたこと
    9. 午後5時ないし午後6時ころ、本館二階会議室、解放研部室などの糾弾会場を見回ったこと
    10. 午後9時30分ころ、本館前広場で開かれた糾弾共闘会議主催の抗議集会で演説した後、機動隊の突入に備えて各門のピケを指示したこと
    11. 午後10時ころ、原告らに強要して書かせた自己批判書または確認書をまとめて青年行動隊長から受け取り、そのころ、第一体育館での「総括糾弾会」の開催を指示したこと
    12. 「総括糾弾会」では自ら司会をつとめ、闘争終了宣言をしたこと
    といった事実を認定されており、「校長室で夕方まで寝込んでおった」との主張と一致しない[112]
  10. ^ 八鹿高校の教職員たちから民事訴訟を提起された際には、丸尾ら被告は「解放同盟員らと共に原告らを立脇履物店前から校内に連れ戻したこと」「校内で糾弾共闘会議構成員と共に原告らを糾弾し、自己批判書の作成を求めたこと」だけを認め、それ以外の暴行(水をかける行為を含む)や脅迫について「不知ないし否認する」と虚偽の主張を行っていた[111]
  11. ^ 丸尾らは、民事訴訟では「原告らに対する糾弾は、社会的相当性を有するものであり、なんらの違法性も帯びておらず、正当な行為であるというべきである」と主張していた[113]
  12. ^ 一般に、求刑が3年よりも長い場合には実刑判決の可能性が高いとされている[116][117]
  13. ^ 八鹿・朝来事件に先立つ1973年西宮市で部落解放同盟員による集団暴力事件(西宮事件)が起きており、丸尾はこの西宮事件を通じて暴力糾弾を学び、それを南但馬で実践したという[76]
  14. ^ 部落解放同盟に動員された被差別部落出身の青年が被差別部落民を挑発する目的で「エッタ、ヨツかえれ」などと叫び、その後、調査団に「八鹿高でエッタ、ヨツというてやった」と証言したとの全解連側の資料もある[126]
  15. ^ なお、この事件について「衝突」という表現が用いられる場合もあるが、1974年11月30日、東京大学自治会常任委から八鹿に派遣され現地を調査した学生によると、「新聞には衝突と書いてあったが」との問いに現地の老女は「そんなものではなかったです。一方的になぐっとった」と答えたという[134]
  16. ^ この同和教育は、校長や教頭も参加する職員会議の決定に基づいて行われており、特定の政党の主導によるものではなかった[137]
  17. ^ 上原の記事について、片山正敏教諭は「解同による暴力の事実の否定はさすがにないが、その代わり但馬地方が、そして八鹿高校が差別の『坩堝』であったかのように描くことで、主犯丸尾良昭の行動を合理化し、返す刃で八鹿高校の同和教育を何の論証もなく切って捨てている」と批判している[179]。八鹿高校の元教諭の小出克己も「喧嘩両成敗をとっている。お前は行司か!」と上原を批判している[180]

出典

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  • 「朝田一派 教師に血の集団リンチ」「5人重体、38人重傷」『赤旗』1974年11月23日。 
  • 「もみ合い十人けが、八鹿高校教諭らと解同系、同和紛争」『朝日新聞』1974年11月23日、兵庫版。
  • 「八鹿高に機動隊、同和教育で混乱、先生ケガ」『毎日新聞』1974年11月23日、兵庫版。
  • 「商店街で衝突騒ぎ、同和教育めぐり対立」『読売新聞』1974年11月23日、兵庫版。
  • 「兵庫県八鹿高 同和教育めぐり紛糾」「教諭ら43人けが」『毎日新聞』1974年11月24日、朝刊。
  • 「警察署長を告発」「兵庫県高教組 同和教育めぐる紛糾」『読売新聞』1974年11月25日、朝刊。
  • 「事実上の休校に 八鹿高」『読売新聞』1974年11月26日、朝刊。
  • 「八鹿高正常化へ」『読売新聞』1974年11月27日、朝刊。
  • 「解放研と教師対立 数人ケガ授業できず 同和教育めぐり 八鹿高」『神戸新聞』1974年11月23日、朝刊。
  • 「違法行為見過ごさぬ」「県警警備部長説明 教師の負傷者45人」『神戸新聞』1974年11月26日、朝刊。
  • 「生徒会が正常化へ三要求」『神戸新聞』1974年11月26日、夕刊。
  • 「八鹿問題で共産党代表が兵庫県に申し入れ」『神戸新聞』1974年11月27日、朝刊。
  • 「45人ケガ 入院28人」『神戸新聞』1974年11月27日、夕刊。
  • 「授業再開ならず」「八鹿高校遠い正常化の道」『神戸新聞』1974年11月29日、朝刊。
  • 『朝日新聞』1974年11月29日。
  • 『朝日新聞』1974年11月30日。
  • 「戦後50年メディアの検証」『朝日新聞』1993年7月1日、夕刊。

このほか、「公正民主的な同和行政と地方自治・教育・人権を守る兵庫県共闘会議」から『八鹿暴力事件公判ニュース』が刊行されていた。

関連項目

外部リンク

事件現場の位置

北緯35度24分22.9秒 東経134度45分55.6秒 / 北緯35.406361度 東経134.765444度 / 35.406361; 134.765444 (最初に教師たちが拉致された立脇履物店前) 北緯35度24分14.7秒 東経134度45分48.3秒 / 北緯35.404083度 東経134.763417度 / 35.404083; 134.763417 (監禁リンチ事件の現場となった八鹿高校)