八条宮尚仁親王
八条宮尚仁親王(はちじょうのみや なおひとしんのう、寛文11年11月9日(1671年12月10日) - 元禄2年8月6日(1689年9月19日))は、江戸時代前期の日本の皇族。世襲親王家の八条宮(桂宮)第5代当主。後西天皇の第八皇子。母は光源寺智秀の女で梅小路定矩の養女の梅小路定子。幼称は員宮(かずのみや)。 延宝3年(1675年)長仁親王の遺言により、八条宮家の継嗣となり、貞享元年(1684年)11月親王宣下を受け、尚仁と命名される。貞享3年(1686年)3月元服し、弾正尹に任ぜられる。元禄2年8月6日(1689年)薨去。19歳。法名は無量光院。 和歌を好み多くの詠草が遺されている。また儒学を修め、山崎闇斎の門人である桑名松雲・浅井琳庵が進講している。 近侍していた栗山潜鋒(のち水戸藩に仕える)が『尚仁親王行状』(『弾正尹八条親王行状』)を著わしている[1]。 脚注
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