八木藩八木藩(やぎはん)は、但馬国(現在の兵庫県養父郡八鹿町八木)に存在した藩。戦国大名で播磨三木城主だった別所氏の一族が立藩したものの、後述のように江戸初期に藩主が不行跡で改易され、廃藩となった。 藩史藩祖は別所重宗(重棟)である。所領は1万5000石。重棟は織田信長の命を受けて羽柴秀吉率いる中国遠征軍が攻めてきたとき、甥で別所家の当主だった別所長治に、信長に降伏するように進言したが容れられなかったため、甥のもとから去って秀吉の家臣となった。長治は秀吉に居城・三木城を攻められて一族とともに自害したが、重宗は秀吉家臣として存続し、天正13年(1585年)8月に八木城主に任命されたため、ここに八木藩が立藩する。重棟は長男の別所吉治(ただし長治の子という説がある)に家督を譲って隠居した後、天正19年6月に死去した。 後を継いだ二代藩主・吉治は、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいては西軍に味方して細川幽斎が守る丹後田辺城を攻めたため、戦後に改易され、大坂を流浪した。しかし吉治の伯母が徳川秀忠の乳母であったことから、後に罪を許されて八木藩に復帰した。 吉治は大坂の陣で徳川方として武功を挙げたことから、5000石を加増されて2万石の大名となった。しかし寛永5年(1628年)5月28日、吉治は病を理由に参勤交代を行なわず、狩猟して遊んでいたことが露見し改易された[1]。 その後の別所家吉治の子・守治も吉治とともに改易されたが、後に許されて1000俵の旗本となった。五代当主・別所孝治の時には蔵米取りから昇格して、1000石の領地を与えられるようになり、お家再興を果たしたが、領地は八木藩領ではなく、下野国・相模国に分散しており、故地への復帰はできなかった。 歴代藩主別所(べっしょ)家1万5000石→2万石。外様。 脚注
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